瀬織津姫 封印された神を祀る 瀧澤神社 仙台は、スピリチュアル!

瀬織津姫(セオリツヒメ)という女神を聞いたことはありますか?全国的に有名な神ですが、東北を中心に信仰されていた、神とも言われております。神話(古事記・日本書紀)には登場しない、不思議な神なのですが、全国各地に、瀬織津姫を祀る神社が存在しています。また、瀬織津姫を祀ることを、禁止された時代があるという、言い伝えが残っています。謎の多い女神、その真実に少しだけ迫ってみたいと思います。

瀬織津姫とは・・? 封印された神? どんな神様?

瀬織津姫(セオリツヒメ)は、

とても有名で、一度は、そのお名前をきいた事ある、神様の中の一柱ですよね。

 

謎も多く、神秘に満ちた、そのイメージから、色々な題材に使われております。

 

まずは、瀬織津姫(セオリツヒメ)とは、

どんなご性格をもつ神様なのか?を考えていきたいと思います。

 

 

私も、そのお名前から、女性神、女神さまである事がわかりますが・・・

皆様も、調べれば調べるほど、どうにも、わからない実態がわからない、神さまだ!

ということに気がつかされますよね。

 

神話(古事記・日本書紀)には、登場しない神様なのですが・・・

 

【大祓い祝詞】(おおはらいのりと)という、祝詞の中には、【祓い戸四神】(はらいどよんしん)

のトップバターとして登場する、瀬織津姫は、祓いの神様としてのご性格が記載されております。

 

私も、(旧)大祓い祝詞は、よく奏上させて頂きますので、何度もお名前も申し上げる神様の中の

一柱になっております。

 

また、伊勢神宮、内宮の別宮・荒祭宮には、

天照大神の荒魂(アマテラスオオミカミノアラミタマ)がお祀りされておりますが、

この荒御魂が、実は、瀬織津姫である、 という説もございます。

 

一般的な説は、こんなところでしょうか?

よく、知られている説ですよね。

 

瀬織津姫は、封印された神・・・は、スピリチュアル!

 

謎の多い、瀬織津姫

私は、東北に住み、古神道を研究するものとして、【秀真傳】=【ホツマツタヱ】古史古伝を、

とても、大変重要視しsており、とても大切にしております。

 

一般的には、【ホツマツタヱ】は、偽書とされていますが、

他の古史古伝、古文書、古事記・日本書紀も、事実と、そうでは無い部分を混ぜて描かれておりますので、【ホツマツタヱ】が、 全てが、偽物ということではないと、私は考えております。

 

では、なぜ、瀬織津姫のお話の時に、【ホツマツタヱ】の名前を出したのか?と言いますと・・

 

【ホツマツタヱ】には、普通に、瀬織津姫に関しての記載があるからです!!

 

ここで、【ホツマツタヱ】の説明や、【ホツマツタヱ】で、瀬織津姫がどの様に記載されているか?

を、

ここで書き込みますと、本題からそれてしまうことや、 混乱を生じてしまう事になるので、

涙をのんで、割愛しますね・・・

 

【ホツマツタヱ】の瀬織津姫の記載を、 超〜簡単に、 掻い摘んで言いますと、

 

瀬織津姫は、『アマテルカミ』の、お后と言う事になっております。

 

『アマテルカミ』とは、

いわゆる、男性神の天照大神(アマテラスオオミカミ)です。

 

【ホツマツタヱ】で、登場する、

アマテルカミ、(天照大神・アマテラスオオミカミ)は、男性神、

現在、天照大神(アマテラスオオミカミ)は、女性神、という事になっております。

 

こちらの経緯、詳細、私の古神道史観などを記載すると、

とても混乱を生じる事になるので、涙をのんで、割愛しますね・・・

 

 

私の結論と致しましては、

謎の神ではないのですが、訳あって、

今は、訳があって、としか言えないのですが、歴史の表舞台から、

姿を消した(消された)、女神なのです。

 

瀬織津姫が、かつて信仰されていた、その形跡は、全国各地に残っており、

ひっそりと人々に信仰されて、

今でも、瀬織津姫の名を残したままの神社もあれば、時には名前を変えて、祀られているのです。

 

瀬織津姫を祀る 瀧澤神社 仙台と芭蕉の関係?

 

人々が、ひっそりと信仰を支えてきた、瀬織津姫を祀った神社が

実は、仙台にも残っております。

 

私は、仙台周辺や、宮城、岩手、東北一帯に、もちろん全国の各所にも

もっともっと多くの

瀬織津姫神社、もしくは、瀬織津姫をご祭神として祀った神社が、

存在していたと考えられます。

 

仙台の中心部に、瀧澤神社 が御鎮座しており、

ご祭神も瀬織津姫のままお祀りされている希少な神社です!

 

そんな、瀧澤神社 仙台は、

江戸時代以前から、仙台の地をお守りくださっていた、由緒ある神社です。

 

のちに記載しますが、元は、違う土地に鎮座されておりましたが、

江戸時代の天和3年 西暦1683年に、現在の地に遷座されました。

 

そして、瀧澤神社の境内には、松尾芭蕉翁の句碑が建てられております。

 

その碑は、梅月碑と言われいるようでして、

仙台のとある方の家で、紅梅を読んだ句だとか・・

深川の芭蕉庵で、とある方に当てた書簡に書かれた句であるとか・・

諸説伝えられております。

 

 

私のブログでも記載いたしましたが、

芭蕉翁は、元禄2年 5月4〜8(旧暦)仙台の地を訪れており、仙台城近くの亀岡八幡宮なども参拝されております。

 

その、芭蕉翁が参拝された、八幡宮の場所というのが、

瀧澤神社と・・・・・・という場所なのです。

 

瀬織津姫を祀る 瀧澤神社 仙台 政宗公の願いとは?

 

瀧澤神社 仙台は、現在、仙台市の中心部 仙台市青葉区本町に御鎮座なさっております。

 

仙台開府当時(慶長6年 西暦1601年)は、

仙台城の近く亀岡山、現 亀岡八幡宮が鎮座している場所に、瀧澤神社は祀られておりました。

 

前記しましたように、松尾芭蕉翁が参拝されたのが、この、亀岡八幡宮ですよね。

 

ここからは、私の邪推になるのですが、

その亀岡八幡宮が鎮座されている、 亀岡山という場所というのが、

ちょっと特殊な、スピリチュアルパワースポットでして・・・

 

仙台城下守護の結界、【仙台 六芒星の結界】のど真ん中、中心部より直線で、西南西の位置で

この亀岡山と結ぶ事ができます。

また、

仙台の四神獣の結界、それは、五行の結界にもなるのですが、その結界では、北の玄武に相当する場所だと推定されます。

実は、私は、亀岡山自体が、スピリチュアルパワースポットではないか?

それは、いわゆる、神奈備(カンナビ)で、山自体がご身体であったのでは?と思ってしまうのです。

その山のエネルギーを見ると、なんと言いますか・・

仙台城下のエネルギーを循環させる、エネルギーを天に返すための、煙突のような役割を果たしている場所だと、私は、強く感じてしまうのです。

 

古人は、土地の気を循環が行われる場所、その御神体である山を拝み、土着の神、縄文の神を信仰していたのではないでしょうか?

時を経て、いつしか、東北の謎の女神、【瀬織津姫】を祀ったのではないかと想像してしまうのです。

もしくは、そこに瀬織津姫を祀ったのは、仙台を開いた、伊達政宗公による指示なのかもしれません。

なぜなら、仙台の街の作り方、一つをとっても、初代藩主 伊達政宗公は、神仏に造詣が深く、

古神道や、古文書や、古神道に関しても、かなり知識を持っておられたとしか思えないのです。

政宗公は、瀬織津姫を知っており、そして、瀬織津姫のエネルギーをお借りして、土地の気、エネルギーの循環をさせ、城下の守護と、繁栄を願ったのでは・・・

と、妄想してしまいます。

 

そのくらい、亀岡山は、エネルギーの強い土地なのです。

瀧澤神社 仙台は、なぜ移転したのか?

 

瀧澤神社 仙台が、

現在の地に遷座されたのは、江戸時代の天和3年 西暦1683年で、

現在の仙台市青葉区本町(近隣)に遷座され、その土地は、当時、同心町と言われていた街です。

仙台藩 四代藩主・伊達綱村公の時代のことです。

 

私のブログ、亀岡八幡の時に詳細書き込みましたが、

 

実は、その同心町には、

伊達家入府の際に遷座された、梁川八幡宮(後の亀岡八幡宮)が、御鎮座されておりました。

 

梁川八幡宮は、伊達家の氏神であることから、政宗公が仙台入府の後、梁川八幡宮の神職の直訴により、仙台の同心町に遷座された経緯がございます。

 

その梁川八幡宮があった社地に、瀧澤神社が遷座され、

瀧澤神社があった社地に、梁川八幡宮が遷座されたと言うことです。

 

要するに、互いに社地交換した、テレコにしたのです。

 

では、なぜ?

仙台藩 初代藩主 政宗公が築いた、神社仏閣によリ張り巡らされた、仙台城下の結界を、

仙台藩 四代藩主 綱村公が、改修したのでしょうか??

四代藩主 綱村公は、

瀧澤神社のみならず、寺院や神社の造営、改修など、様々な改革を行いました。

 

 

私は、寺社の改修造影は、仙台藩 のお家事情が大きかったと考えます。

ここでは詳しく書き込みませんが、

三代藩主は、21歳の志なかばでの逼塞の憂き目に遭い、

四代藩主は、わずか一歳4ヶ月で、藩主襲名されました。

三代藩主、四代藩主と、当然、摂政が置かれたはずですよね。

なので、実権を握る方々の権力争いにより、様々な事が起きていたと思われます。

 

「船頭多くして、船、山に登る」の言葉通り、藩政が混乱している、そんな中、

ついに、寛文11年 西暦1671年 歴史小説や、ドラマでも有名になった、【伊達騒動】が起きてしまいます。

 

なんとか、お家取り潰しという、最悪の事態を避けられた伊達家でした。

 

もう一度、時系列を整理しますと

伊達騒動が、寛文11年 西暦1671年

瀧澤神社と梁川八幡宮の、社地入れ替えが、伊達騒動の12年後、天和3年 西暦1683年です。

 

四代藩主 綱村公は、伊達騒動の後、13歳ながら自ら政務を執り始め、藩政の立て直しのみならず、寺院や神社の造営、改修など、様々な改革を行いました。

 

私は、綱村公が、伊達藩の立て直しを、伊達家の安泰を、現実世界だけではなく、

神仏のお力もお借りして、正しき道を歩む、真の為政者になろうとされたのではないかと思ってしまいます。

 

私は、そう考えると、

綱村公が、瀧澤神社と梁川八幡宮の、社地入れ替えの理由を、伊達家の安泰 と考えると、

仙台城下のエネルギー循環の地、煙突の役割を果たす御神体の山に、伊達家の氏神さま、梁川八幡宮を遷座されたのは、とても納得できるのです。

あくまでも、私の勝手な邪推でしかないのですが・・・

 

 

最後に、

同心町に遷座された、瀧澤神社

 

後の世に起こる、昭和20年、7月10日、米軍により、焼夷弾10,961発による絨毯爆撃と、高性能爆弾8個により、仙台市中心部に激しい空爆があり、仙台が焦土と化した、仙台空襲の中、

瀧澤神社は、戦災を逃れ、無事であったつ伝え聞きます。

 

瀧澤神社の、御神徳の一つは、【火伏せ】であります。

戦災後、火伏せの神として、今もなお、参拝者が絶えないことは、言うまでもありません。

言うまでもなく、瀬織津姫は、ここ仙台の地にも、確かに存在し続けているのですね。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

安陽都奈(あひつな)

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