日高見神社 石巻 歴史深き御祭神を祀る 日高見国の延喜式内社

宮城県の北東部、北上川と旧北上川に囲まれた、肥沃な土地、石巻市桃生町に、天日別を祀る、式内社が御鎮座している。古代、蝦夷の住まう、肥沃な土地には、伊勢の伝承のように、伊勢国造とされている伊勢津彦尊が住まう地であったとの伝承が残っている。桃生町(ものう町)という地名の由来には、様々な推測もある。土地の民、蝦夷、大和、物部、複雑に入り混じるこの土地には、どのような歴史が刻まれているのだろうか?

日高見神社 石巻 歴史深き御祭神 石巻の延喜式内社

宮城県の北東部、北上川と旧北上川に囲まれた、肥沃な土地、石巻市桃生町に、

天日別命を祀る、式内社が御鎮座している。

 

その名は、「日高見神社」という歴史深き神社なのです。

 

日高見 という地名は、

諸説あるものの、おおよそ、蝦夷(えみし)が住まう国であろうと思います。

 

大和ではない国、北関東〜東北一帯や一部北海道を指したものであろうと考えられます。

 

そんな、日高見の国にある、日高見神社の鎮座地は、石巻市桃生町。

 

その土地は、北上川、旧北上川に囲まれており、肥沃な土地であり

古代から人々の営みがあったであろう土地なのです。

 

 

また、日高見神社を囲む『北上川』も、

『日高見』から変化した、語源を同じ句する名詞ではないかと考えられています。(諸説あります)

 

話は少しそれますが、

私は、東北各地の神社を参拝させていただくと、

結構、語源が分かりにくい地名にあうことがあります。

 

郷土史などを調べてみると、

おおよそ、『アイヌ語』が語源となっている、と解説されていることが、よ〜〜くあります。

 

そんな解説を見ると、

私は、いつも疑問を感じてしまうのです・・・・「ちょっと短絡的すぎない??」って。

 

なぜなら、

アイヌは、住む地域によって、言語がまちまちで統一されていなかった事と、

 

アイヌの方々は、鎌倉以降に、入殖してきた北方の狩猟民族の方々である事が明らかであり、

 

縄文時代から、北海道、東北地方に住んでいた、いわゆる「縄文人」ではないのですよね。

(※アイヌに関しての詳細は、割愛します)

 

縄文 原始の頃から住んでいて、言語を持っていたわけですから、

地名のアイヌ語起源は、慎重に見ていかないと、真実を見落としてしまうと思うのです。

 

ちなみに、日高見、桃生などのも、アイヌ語起源説が多く見られますが、

私は、全く違うと考えております。

 

話は、本題に戻り

日高見の名が国名として史上にあらわれるのは、景行天阜27年です。

武内宿弥が東国を巡り日高見の国状を奏上しています。

《二月十二日
武内宿弥自東国還之奏言。東夷之中。有日高見国。其国人。男女並椎結文身。為人勇桿。是摠曰蝦夷。亦土地沃壊而曠之。撃可取也。》

「東夷に日高見の国あり、人勇敢にして土地沃穣なり撃って取る可し」

 

そして、

同40年、皇子日本武尊は、日高見の国に到り賊を平定したと言われております。

日高見神社 石巻の歴史①  歴史深き御祭神を祀る式内社

 

日高見神社の歴史を見てみると、とても興味深いことがあります。

古来この地方に伊勢津彦尊が居住しており、

高皇産霊神の子孫 天日別尊に亡ぼされる。

尊はそれを皇孫に奉ったとあり、神武天皇の御世に天日別尊を祀って日高見宮としたと伝えられる。

宮城県神社庁 神社検索 日高見神社より、抜粋

 

この地に、

伊勢津彦尊が、住居していて・・・?

天日別尊に滅ぼされる・・・・?

 

『伊勢国風土記』では、

伊勢の国造の、伊勢津彦孫が、天日別尊に、国ゆずりを迫られて、伊勢を去った史実があります。

そして、仕方なく国譲りを承諾した、伊勢津彦神は、

伊勢を去る証拠として、「強風を起こしながら波に乗って東方へ去って行く」ことを誓い、

夜の内に、東方へと去って行った とされているのです。

 

東方とは・・・・東北??

そして、行き着いた先が、宮城県石巻市???

社伝では、そこにに住んでいたことになっていますよね・・・・

 

 

伊勢津彦を謎の神なのですが、

私は、各地の風土記などに登場するのを見かけます。

伊勢風土記では、

出雲建子命(いずもたけこのみこと)や、伊勢津彦神、櫛玉命(くしたまのみこと)

 

播磨の風土記では、伊勢都比古命、

住吉大社神代記では、伊勢川叱古命

 

となっておりますので、伊勢に関係しているのは確かでしょうね。

 

私は、竹内文書に記されている、伊勢津彦命の別のお名前とお姿を、この伝承に当てはめると、

しっくりきてしまうのです。

またの名を、五十鈴川で、禊をしたことから、五十鈴彦の名もある様です。

 

伊勢津彦尊の、別のお名前、竹内文書に記されている、お名前は控えますが・・・

 

 

竹内文書では、ある地域から、伊勢に。

伊勢から、東北へ、と歩まれて様ですので、石巻にいても不思議ではない、そんな気がします。

そのように、第73世の宿禰さまも、おしゃっておりましたので・・・・・

 

私は、

日高見神社の社伝は、風土記などのいろいろな伝承と、

日高見神社が、代々伝えてきた社伝が、時と共に混ざってしまい、今に至ったのではないかと思います。

 

日高見神社 石巻の歴史②  歴史深き御祭神を祀る社

日高見神社の歴史について、時系列を記していこうと思います。

創建に関しては、

景行天皇40年に、日本武尊が、賊を平定するにあたり、皇祖 天照大神を祀り武運を祈願したとも

伝えられている様です。

 

私が、前章で記しましたように、

天日別尊が、伊勢津彦を、この地より追い出して史実により、

神武天皇の御代に、その功績を讃えて、天日別尊を祀ったことに由来する建立説もありますよね。

 

また、日高見神社が授かった神位について見ていきましょう

 

桓武天皇、延暦21年、西暦802年に、正五位上勲五等、

貞観元年、西暦859年、陸奥国日高見水神に従四位下を授かっている様です。

 

私は、

この地を訪れ、この地を譲り受けた神が、天日別命であり、東征に来た方が、日本武尊であった事、

また、

近くに桃生城と言う、城柵があり、大和の支配が強かった地域で、蝦夷討伐の政策上

大切な地域であった事から、神社の階位が高めである事の理由であろうと考えます。

後の大和、天皇が、

南に、北にと、奮闘された日本武尊の尊の死を労った証でもあるのではと推測されます。

 

気になる記載が、三代実録で、従四位下を授かった、【水神】と記されているところです。

(*日本三代実録は、平安時代に編纂された歴史書)

 

日高見神社は、水の神様・・・なのでしょうか??

それでは、日高見神社の御祭神を見ていきたいと思います。

日高見神社 石巻、御祭神の謎 ① 歴史深き石巻の神社

 

宮城県神社庁の神社検索サイトによりますと、日高見神社の御祭神は、

 

天日別尊、天照大神、日本武尊、武内宿禰尊 となっています。

 

私なりに、御祭神の祭られた時系列を整理したいと思います。

 

【天日別尊】は、

この地を、伊勢津彦から譲り受けた神であり、神社の創建の由来となった神ということで、神武帝の代に祀られた事になります。

 

【天照大神】は、日本武尊が、東征の際、自身の武運をいろるために祀られております。

 

【日本武尊、武内宿禰】は、時を経て後冷泉天王の康平年間(西暦1058~1069年)、

前九年の役の折、源義家公が、神殿を造営し、日本武尊、武内宿禰を併祀したそうです。

 

社伝などにより、現在、日高見神社にお祀りされている、4柱の神に関しましては、

お祀りされるまでの経緯が、わかりましたが・・・・・

 

私が、知りたい【水神】に関しましては、記載が見られない様です。

 

私は、北上川と旧北上川に囲まれた、肥沃な土地ですから、

古代から、人が豊かに暮らしていたと思われ、

人の暮らしには、農耕があり、信仰があったはずなだと考えてしまうのですよね。

 

豊かな土地にしてくれる、

命の水を与えてくれる、

人を運び、物を運び、文化が交流する、北上川、旧北上川に、

きっと、古代縄文の人は、神を感じ、畏敬の念を持ち、感謝の対象、

祈りの対象だったのではないか?

と、私は、考えます。

日高見神社 石巻、御祭神の謎 ② 歴史深き石巻の神社

現在の、日高見神社の御祭神には、

水の神と思われる、神名は見当たりません出したが、

 

私は、前記したように、古代 縄文人は、水、川、そのものに畏敬の念を抱き、

神を感じ、川を、水を祀っていた斎場があったのでは?と考えております。

 

またここの、桃生町も、角田市と同じ様な歴史の流れを感じてしまうのです。

 

共通点は、

大河と肥沃な土地、古代斎場・・・日本武尊、延喜式内社・・官衙や城柵。

 

角田市にも、伝承では、

日本武尊が入り、瓊瓊杵尊を祀り、後に大和の官衙ができ、熱日高彦神社が創建されました。

その、熱日高彦神社のご鎮座地は、古代信仰の斎場があった地に創建された神社でした。

その例から見ていくと、

桃生町の、日高見神社も、同じ歴史を辿ったのではと考えるのが自然ではないでしょうか?

いわゆる、縄文の民の斎宮に、大和の神を祀り

国を統一していった、という事です。

また、興味深いのが、

冒頭に記載した、地名の由来に関してなのですが、

桃生町の、『ものう』は、アイヌ語説がありますが、私は、それはちがうと思うので、

その他の説として興味深いものをご紹介いたします。

 

和名類聚抄では、桃生に、『毛牟乃不』(モムノフ)と言う訓が出ているそうで、

毛牟乃不は、武神である、という説があり、

武士(モノノフ)の語源説とも言われております。

 

また、

毛牟乃不は、物部(モノノベ)ではないかと…

わたしも、

この説が正しのでは?と、思っております。

なぜなら、古代東北の民、蝦夷(エミシ)には、優れた製鉄技術があり、戦も強く、

何度も押し寄せた大和朝廷の大群を、圧倒的に少ない人数で追い返し幾度も勝利しております。

 

あまり、表の歴史には出てこない事実ですね。

 

馬も、鉄も、武具も、古代東北の方が圧倒的に優れておりました。

縄文時代には、いなかった馬が、

いつのまにか、古代東北の名産となっております。

 

縄文晩期〜7世紀頃までに、大量に人の流入があり、

文化交流をして、古代東北の文化を形成して行ったのではないでしょうか?

 

東北の神社を観ていると、神代の頃から、

まるで、地層のように重なり合い、文化交流が行われた形跡をつけることが多くあります。

日高見神社 石巻へのアクセス・駐車場・御朱印 

 

鎮座地

宮城県石巻市桃生町太田字拾貫壱番-73

例祭日

4月19日、9月19日

連絡先

0225-76-1035

 

駐車場

神社の前に駐車スペースあり、古代東北を感じれるパワースポット神社、

御朱印

社務所にて

 

明治以降は、本山派聖護院門跡の寺院になった歴史もあるようです。

延喜式内社 日高見神社、古代神、大和の神、修験の神が祀られた、ご利益多き神社。

ご興味持たれた方は、ぜひ、一度、ご参拝くださいませ。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

安陽都奈(あひつな)

コメント

タイトルとURLをコピーしました