宮城県の最北東に、三方を海に囲まれた、唐桑半島。リアス式海岸の特有の地形で、景観に恵まれた、気仙沼市唐桑町に、早馬神社(はやまじんじゃ)が、御鎮座しております。『鎌倉殿の13人』でお馴染みの『梶原景時公」ゆかりの、パワースポット神社は、800年の歴史を持つ。ここにも、梶原氏が代々宮司をお勤めになる歴史ある神社にも、原始 縄文の頃からの古代信仰との融合が見られる様である。古代から続くスピリチュアルパワースポットの唐桑半島に、ご鎮座する神社の歴史を、紐解いていきたいと思います。
気仙沼のパワースポット!早馬神社は、鎌倉殿ゆかりの『梶原景時公』
宮城県の最北東、気仙沼市唐桑町に、早馬神社(はやまじんじゃ)という、
歴史がある神社が、御鎮座しております。
早馬神社は、2022年のNHK大河ドラマ、
『鎌倉殿の13人』のお一方、梶原景時と深いご縁のある神社なのです。
話は、少しややこしくなるかも知れませんが、
ご当地、唐桑半島には、早馬神社が創建される前に、
『梶原神社』が、先に創建されました。
その後に、
同じく、梶原景時の兄である、梶原景実により『早馬神社』が創建されたのです。
ちなみに、
最初に創建した『梶原神社』の御祭神は、源頼朝公・梶原景時公・梶原景李公が祀られております。
私も、両神社を御参拝させていただきますが、
梶原景実公が、
梶原神社に、お祀りした御三方、源頼朝公・梶原景時公・梶原景李公は、
とても偉大な方ではありますが、神として崇めるには、時代が浅すぎる気がしてしまいます。
本当に、神として祀ろうとしたのか?今となっては、事実はわからないのですが・・・・・
私は、梶原景実公は、当初、源頼朝公・梶原景時公・梶原景李公を供養しようと
祠的なものを建てて、祀ったのではないのか?
また、後世に、源頼朝公・梶原景時公・梶原景李公を伝え継ぐ為に、祀ったのではないか?
と、思ってしまうのです・・
時代と共に、神社の形態となり、神社となっていたのではないでしょうかね?
御祭神が、源頼朝公・梶原景時公・梶原景李公という事から
梶原景時公の所縁ある神社、というよりは、
本来、梶原氏一族の、私的な神社と言って良いのでしょう。
とは言え、
現在は、皆様がご参拝いただける神社となっております。
現代の私たちが、参拝させていただけるというのは、
梶原氏が、『梶原神社』『早馬神社』を創建してくださったからで、
梶原氏が、神社を守り、 時代を経て、地元の人々も含めて、崇敬を集め、人々が集い、立派な神社となって言ったのでしょうね。
それは、
梶原氏直系子孫が、宮司さんを務めて、子々孫々、大切に護り抜ぬいてきた証でもありますよね。
そして、梶原氏は、
地元の人に受け入れられ、土着の民となって行ったのでしょうね。
その事を示すように、気仙沼市の唐桑半島は、
梶原姓が、100軒を超える、日本最大の梶原姓の集落として知られております。
気仙沼のパワースポット!早馬神社の歴史は『梶原景時公』所縁
気仙沼・唐桑に御鎮座されます、
『早馬神社』の創建は、建保5年、西暦1217年と伝わっている様です。
今から、約800年前の事ですね。
先ほども、創建者として、お名前を記載しましたように
梶原景時の兄である、梶原景実公は、頼朝公亡き後、梶原家の衰退と、和田氏、畠山氏が滅びゆくのを見て、思うことがあったのだと・・・
何せ、景実公は、僧であられますので、諸行無常の世を、憂いた事でしょう。
社伝には、
鎌倉を捨て、奥州、唐桑にたどり着き、この地を切り拓き、お住まいになった旨の記載が見られ、
お住まいの脇に、社を建て、源頼朝公、梶原景時公、梶原景季公の御影を安置されて
菩提を弔ったのが、梶原神社の始まりとされております。
そして、その2年後に、景時公の三男、
景茂公(かげもち)のお子様、大和守景永(けいえい)様が、景実公を慕って、唐桑にお越しになり、
景実公の養子となり、そして、神職になられました。
神職になられた、大和守景永(けいえい)様が、景実公と共に、
早馬山山頂に、『早馬神社』(奥宮)を建立されたのが、早馬神社の 創建建の経緯
と、伝えられております。
私は、景実公の唐桑入りに関しまして、
本当は、社伝とは違って、
ここ唐桑に偶然たどり着いたのではなく、先達の導きがあって、
唐桑に、お越しになったのではないか?と、考えてしまいます。
なぜなら、
ここ唐桑には、すでに先住の民が豊かに暮らし、古代信仰の、宗教的な聖地であった形跡が見られるからです。
そのことは、後ほど、記載することにしましょう。
その後、慶長年間に、
実は、
この地方一帯は、慶長三陸沖地震と言う、大地震にみまわれ、大津波に襲われてしまうのです。
その大津波によって、景実公のお住まいだった、居宅や、拝殿などは、大津波により流出したそうです。
現在の早馬神社(里宮)が、現在の地、宿浦に遷座されたのが、350年前の様です。
早馬神社は、中世、本山派修験として、活動され、伊達家の祈祷師を勤められた、
と、言われております。
この辺一体の神社などは、全くの、私の肌感覚なのですが、
御神楽などをみても、修験の名残が強く残っている様に感じてしまいます。
そう感じてしまうのは、おそらく、明治期に、神社を取り巻く法律が切り替わっても、
人々の信仰心、風俗・風習は、急には変わらないからなのでしょう・・・
その後、
明治の神仏分離令により、『早馬神社』として、現在に至る様です。
現在、早馬神社(里宮)は、拝殿の少し奥、小高い裏山を登ると、金刀比羅神社や、天照大神宮、
などが祀られていおります。
私も、参拝させていただくときは、裏山まで登り、摂社、全てに手を合わせますよ。
また、そこには、
早馬神社(奥宮)の遥拝所としての場所がございますので、そこから、奥宮に手を合わせる事ができます。
参拝の際は、ぜひ、裏山まで行ってみてください。
気仙沼のパワースポット 早馬神社奥宮は、歴史織りなす社
気仙沼・唐桑に御鎮座されます、パワースポット 早馬神社。
上記しましたように、早馬山という御山に、早馬神社奥宮が御鎮座しております。
梶原景実公が、唐桑にお住まいになり、頼朝公や、一族を弔う為に、梶原神社を創建された、
その、2年後に建立された、その奥宮こそ、早馬神社の本宮であります。
ここでは、私が、前項で記しましたことについて、深掘りしていきたいと思います。
梶原景実公が、頼朝公亡き世を憂いて、鎌倉をお捨てになり、唐桑におつきになります。
私の考察では、先達のお導きがあり、唐桑にお越しになったと思います。
なぜなら、
ご当地も、平安時代から、奥州藤原家が統治していた地であり、
いわば、鎌倉勢は、奥州藤原家にとっては敵方にあたるお方です。
奥州藤原家が、文治5年、西暦1189年、鎌倉勢に滅ぼされたとはいえ、
各地方には、奥州藤原方の武将や子孫が、息を潜めている筈です。
鎌倉勢の勝利宣言、いわゆる戦後、約25〜26年後といえば、
まだ戦の傷が言えない時期ですよね。
その時期に奥州入りした、梶原景実公、
一方、
藤原方は、戦に敗れ、力と数は、衰退したものの、
隙あらば、一矢報いて、
仲間や、父、先祖のかたきを撃とうと思っている勢力が、まだ、いたと考えられますよね。
その地に、偶然に辿り着き、住み着いた?
調べてみたら、かつての敵方鎌倉の人だったら、
地元の人は、何かしらアクションを起こしますよね・・・
そのまま平和に、何事もなく、暮らせる訳がありませんよね〜って思ってしまいます。
恐らく、
先達がいて、地元の勢力とは、理解も得られて、協力関係であったので、
梶原景実公は、唐桑の地に、あたたかく迎え入れられたのでは?と、私は思っております。
また、
もう一つ、地元の方の理解が得られていないと、なし得ないこともございます。
こちらも、あくまでも、私の邪推ではありますが、
それは、
早馬山の頂上への、早馬神社の創建です。
地元の方の理解が得られていないと、なし得ないことだと思います。
それを説明するには、少し、話しは、遠回りになりますが、
早馬神社は、「はやうま」と書いて、「はやま」と読んでいます。
また、葉山、羽山、端山、も「はやま」と読みますよね。
東北に多いのですが、「はやま神社」、葉山、羽山、端山、漢字は、それぞれですが
「はやま神社」が、御鎮座しているのです。
この「はやま」は、おそらく「はやま信仰の山」だった事を意味しているのだと思われます。
「はやま」は、原始 古代 東北にあったの信仰だと思われます。
「はやま」に関する詳細は、
また別の機会に説明したいと思いますので、今回は割愛いたしますが、
原始 古代信仰の聖地の山に、
早馬神社を創建して、鎌倉の文化 大和の神を祀る、
ということは、
地住民の理解が得られていないと、なし得ないことだと思いませんか・・・?
私の勝手な妄想なのかも知れませんが・・・
早馬神社 気仙沼のパワースポット!ご祭神・ご利益・アクセス
『早馬神社』
御祭神は、倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)
五穀豊穣、商売繁盛の神様としても広く崇められている神様ですね!
早馬神社のご利益としては、
鎌倉にて、景実公が、源頼朝の命により安産祈願を執り行い、
無事安産にて男子を出産した故実から、安産・子安のご利益があることで知られいますよ。
境内には「撫で馬」があり、
頭や足を撫でながら、「万事ウマくいくように」と願うと良いそうです。
早馬の名から、勝ち馬必勝のご利益があるとされていて、馬にちなんだお守りもございます。
例 祭 9月19日
神幸祭 10月第1日曜日
奥 宮 早馬山頂(漁火パーク徒歩十五分)
兼務社 八雲神社(越路 天王山頂南館跡)
境内社 不動尊神社、金刀比羅神社、天照皇大神、若木神社、祖霊社
交通アクセス 三陸自動車道唐桑半島ICから車で10分
問合せ先 早馬神社0226-32-2321
- 場所
- 宮城県気仙沼市唐桑町宿浦75
- お問い合わせ
- 早馬神社社務所j
TEL::022−32−2321
唐桑半島は、原始 古代から続く東北の歴史と、鎌倉の歴史が、平和的に融合のされ、
現在まで、脈々と受け継がれ、神社と、唐桑の歴史を作ってきたのだと思います。
宮城の最北東に、鎌倉を感じる、早馬神社 気仙沼・唐桑
鎌倉と、東北の融合を感じに、自然豊かな土地の空気にふれ、参拝されてみてはいかがでしょうか?
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
安陽都奈(アヒツナ)
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