亀岡八幡宮 仙台 石段の上のパワースポットは、歴史深き奥の細道

亀岡八幡宮 仙台は、仙台六芒星、四神の結界の地としても欠かすことのできない場所、パワースポットです。奥の細道、松尾芭蕉も訪れた亀岡八幡宮、実は、政宗公の時代には、その場所に存在していない神社なのです。では、亀岡八幡宮や、この土地に、隠された秘密に迫ってみたいと思います。

亀岡八幡宮 仙台 石段の長きパワースポットは、奥の細道

亀岡八幡宮 仙台は、

仙台城下を守護する、六芒星、四神の結界の地として、現在では、有名なパワースポットになっております。

 

亀岡八幡宮が、有名だったのは、昔もそのようで…

 

元禄2年、西暦1689年旧暦の5月、芭蕉さんと曽良さんは、亀岡八幡宮に詣でております。

曽良さんの記録には、

六日 天気能 亀が岡八幡へ詣。城ノ追手より入。 俄ニ雨降ル。 茶室に入、止テ帰ル。         曽良随行日記より

有名な句がのこっている松島に詣でる前に立ち寄っております。

ここでは、句が残っていないようですが、仙台城下や、遠く金華山が浮かぶ海まで見通せるほどの絶景。

私は、きっと芭蕉さんも心打たれた事と思います。

そして、気になる記述、

城の追手門より入……

仙台城の大手門から入ったの?

 

 

私は、古地図を見て調べて観ました。

どうやら、大手門から、入らないといけなかった様です。

二の丸の下横を抜けて、亀岡山に鎮座する社に向かう様になっておりました。

古地図では、城内に鎮座されていた神社として伺えます。鳥居前は、門前町の様に区割りされた住宅のように見えますので、おそらく侍屋敷だと思われます。

 

亀岡八幡宮は、天和元年、西暦1681年に亀岡八幡宮は、現在の地、芭蕉さんも詣でた地に遷座されております。

 

では、仙台城築城、慶長7年、西暦1602年〜約80年間、亀岡八幡宮があった地は、どうなっていたのでしょうか?

 

スピリチュアルパワースポットの所以がありそうな気がしますよね!

私なりに、その歴史を紐解いてみたいと思います。

亀岡八幡宮 仙台 石段長きパワースポット神社の由来・歴史①

 

亀岡八幡宮 仙台の始まりは、伊達氏の始祖、伊達朝宗公が、

文治年間、西暦1185〜1190年に、福島県伊達郡梁川に、鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりと言われております。

その後、伊達家の本城移動に伴い何度か場所を移っているようです。

 

時を経て、伊達政宗公の御時代

 

奥州仕置により、廃城となった岩手沢城(現在、宮城県玉造郡岩出山町)に、秀吉公の名により入府された政宗公。

 

入府された政宗公は、「岩出山」土地名を改め、仙台城に移るまでの12年間を、岩出山城を本城とされました。

その頃、伊達家の移動に伴い、移動を共にされ遷宮されてきた、亀岡八幡宮。

 

なぜか、政宗公の岩出山移城の際、旧領地の梁川に置かれたままになってしまい、梁川は、上杉景勝公の領地となってしまいます。

 

時は流れ、江戸時代…

 

旧領、梁川に置かれたままの八幡宮、それを嘆いた神主の御兄弟は、慶長6年、密かに御神体護持して梁川を抜け出し、仙台藩領内へ

 

神主のご兄弟は、亀岡八幡宮は創建以来、代々伊達家と、その領土を鎮護していた旨伝え、伊達藩の領内への遷座を願ったようです。

 

慶長6年(西暦1601年)は、仙台城築城の年

 

私は、亀岡八幡宮の神主は、伊達家が仙台の地を知行し、仙台の城下町を整備をしていく機会を、最大の好気と捉え、従来のように伊達藩の領地に戻り、伊達家と、領地の鎮護を願ったのだと考えます。

 

神主の願いに対し、

神仏を大切にされる政宗公は、

翌年の慶長7年(西暦1602年)仙台城下、同心町に安鎮を命じました。

神主の念願かない

亀岡八幡宮は、無事に、仙台藩領内に復帰されたようです。

 

ん??疑問を感じる私。

同心町とは、現在の仙台市青葉区上杉、本町周辺にあった様なので、

現在の地、当時の仙台城内では、ありませんよね!

 

なぜ、現在と違う場所に遷座されたのか?

現在の亀岡八幡宮があった地には、何があったの?

 

では、その辺を

私なりに、もう少し紐解いていきたいと思います。

亀岡八幡宮 仙台 石段長きパワースポット神社の由来・歴史②

 

亀岡八幡宮 仙台は、前項で述べました通り、

仙台領内への遷座は、同心町の一角(現在の青葉区本町)に祀られました。

同心とは、仙台藩でも、町奉行の配下を指すようです。

そんな、同心の方々が住まう、同心町は、仙台城から見て、北の方角にあります。

私は、同心町の人々が亀岡八幡宮の遷宮を喜び、崇敬し、亀岡八幡宮の神々は、同心町の鎮護、同心の方々の守護や、伊達家仙台藩を総じて鎮護下さっていたのだと思います。

 

亀岡八幡宮が現在の地に遷座されたのは、仙台藩 第4代藩主伊達綱村公の命により、天和3年、西暦1682年、現在の地に遷座されました。

 

慶長7年(西暦1602年)〜天和3年(西暦1682年)の80年の長きに渡り、 同心町に御鎮座されていた、亀岡八幡宮。

 

なぜ、綱村公は、仙台城二の丸付近、現在の場所に亀岡八幡宮を遷宮をしようと思ったのでしょうか?

 

神社側に何かあった訳でもないのに、遷宮とは……

少し不思議ですよね??

 

私は、この遷宮に関して、

伊達家の史実を見てみてみないと、真実が見えてこないと思うのです。

その時代の時代背景、伊達家のお家事情など、社会情勢、など、何らかの事情により、綱村公に、強い御意志が働いたためだと思うからです。

 

そこで、

私は、亀岡八幡宮の遷宮前後の伊達家の藩主に注目していこうと思います。

 

仙台藩、第3代藩主 綱宗公

略歴

万治元年、西暦1658年、9月に第三代藩主となる、故あって、逼塞の幕命を受け、21歳で藩主を隠居いたしましたので、在職2年でした。

芸術的天分をお持ちの藩主であったようで、隠居御は、芸術分野に精力を注がれたようです。

私は、実際の綱宗公の書、狩野探幽に学ばれた画、和歌、その他、を拝見致しましたが、とても素晴らしく、まさに、プロに引け取らない、芸術作品ばかりです。

 

仙台藩、第四代藩主 綱村公

略歴

父君、綱宗公の隠居により、わずか2歳で襲封、第4代藩主となる、万治3年、西暦1660年のこと。

寛文11年、西暦1671年、寛文事件(伊達騒動)

延宝3年、西暦1675年、初入国、

その後、学問の興隆、仏教保護、神社の修復造営、干拓、運河の開発、日光東照宮の修復総奉行、平泉 義経堂建立 等々

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ざっと、仙台藩 第3代・第4代藩主の略歴を記載しました。

 

私は、第3代藩主 綱宗公は、ここでは記しませんが、故あったにせよ、不本意にも、わずか2年で隠居となり、失意のまま隠居生活を余儀なくされました。

その故あって、とは、詳しくは書き込みませんが、

逼塞の理由は大義名分であり、誰もが納得せざるを得ない事となっておりますが、私は、伊達家内の勢力争いが大きな要因では?と思ってしまいます。

綱宗公は、失意の中、天分であった芸術分野で作品を生み出すことが、   唯一、心の拠り所であったろうと…私は、推測いたします。

 

 

また、

第四代藩主 綱村公も、まだ幼い2歳で襲封、藩主となられました。

後見人がついての藩主、実権がない状態ですよね。

そんな中、お家騒動、伊達騒動、漢文事件が起きます。徳川幕府を巻き込んだ伊達家お家騒動は、伊達家改易の危機を招きます。

父の失意の隠居に加えて、幼き頃に四代藩主となり、また、少年期で起きたお家騒動…

私は、伊達家がグラグラと揺れ動いいるさなかで、綱村公が、藩政を執り行うには、極めて、極めて、悪条件が揃い過ぎであったと思います。

 

亀岡八幡宮 石段長きパワースポット由来・歴史③

前項では、

亀岡八幡宮の遷宮を迎えた時期に、伊達家に何が起こっていたのか?と言うことで史実を振り返ってみました。

 

第四代藩主 綱村公の御時代には、お家騒動により、伊達家改易の危機を迎えました。

その後、改易を免れた綱村公は、御歳13歳ながら、みづから政務を執り始めま、学問の興隆、仏教保護、神社の修復造営、干拓、運河の開発、日光東照宮の修復総奉行、平泉 義経堂建立 等々に精力を注ぎました。

 

では、お家事情もあり、困難な状況下で、

なぜ、4代藩主 綱村公が、御自ら率先して、神仏の保護、修復、造営に力を注いだか?

私は、その状況から、ある仮説を立てざるを得ません。

盤石であった伊達家が、第3代、第4代と、グラグラと足元から崩れそうになってしまいました。

仙台藩 初代藩主、政宗公が、仙台の城下、また東北の地を守るために、あらゆる力を駆使し、スピリチュアル的にも守護を固めました。

政宗公が施した結界、守護は、外からくる圧力に対しては、とても強力でありましたが、意外なところから崩れてしまったのです。

そうです!身内、家臣、内部から…

 

第四代藩主 綱村公は、

その事を解決するかのように、御自ら政務を執り、神仏の造営、保護、修復に精力を注ぎ、浄化に張り巡らされた、結界と神仏の守護を、外からの防衛から、内向きへ、内部強化、伊達家の安泰のために、力のベクトルを変えたとしか思えないのです。

 

その一つが、亀岡八幡宮 仙台です。

代々、伊達家と領地を鎮護されてきた、伊達家の守り神、亀岡八幡宮を、  仙台城内のパワースポットの肝となる、現、亀岡山に遷宮させたのです。

この事により、城内の守護、伊達家への守護は、とても強力なった、と、私は思っています。

 

天和元年から、社殿の造営を開始され、工期に3年も費やす、とても立派な社殿を造営(亀岡八幡宮の公式ホームページでお写真が掲載されています)

その規模からも、4代藩主 綱村公が、伊達家守護を願う強いお気持ちを伺うことが出来ますよね。

(残念ながら、大東亜戦争の戦災により焼失してしまいました)

 

亀岡八幡宮 仙台 石段の上のパワースポットに、ご鎮座の神さまは?

亀岡八幡宮は、仙台城内のパワースポットに遷宮され、御鎮座なさいました。

と、私は思っています!

なぜなら、初代藩主 政宗公の御時代には、現、亀岡山(亀岡八幡宮が遷宮して、亀岡と呼ばれています)には、

瀬織津姫神社が祀られていたのです!!!

瀬織津姫神社は、謎深き神、瀬織津姫を祀っている神社です。

瀬織津姫と、東北とは、深い、深い縁がございますが、ここでは割愛します。

 

そして、私の勝手な見立てでは、

瀬織津姫神社があった場所、現、亀岡山は、

仙台城下のエネルギー循環をさせるため、仙台の煙突の役目になっているように感じるのです。

仙台の排気の煙突、汚れたエネルギーを天に戻し、また仙台城下に精気を循環させるための場所。

私は、そのエネルギーを感じてしまうのです。

 

亀岡八幡宮 仙台 パワースポットの理由、結界の要となった理由、私なりの解釈で説明させていただきました。

 

理由はともかく、参拝したら、必ずわかりますよ!その訳。

 

亀岡八幡宮、ぜひ一度、ご参拝されてみてくださいませ。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

安陽都奈(アヒツナ)

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