瑞巌寺 松島はスピリチュアルパワースポット!国宝寺院の謎

瑞巌寺は、日本三景の一つ、松島のある、1000年の歴史をもつ古刹。各時代に歌人、宗教者、様々な著名人が訪れ、明治天皇の行在所にもなった瑞巌寺。霊場松島のスピリチュアルパワースポットには、仙台城下の四神獣、東の護りとして、瑞巌寺が当てられているが、実は、過去にも結界が貼られていた??そんな、国宝寺院に、どんな秘密が隠されているのでしょうか?

瑞巌寺 正式名称は?由来と歴史を探る

日本三景の一つ、東北は、宮城県の松島町にある、瑞巌寺は、民謡でも歌われる有名な、古刹。

東北の聖地の一つでもある、スピリチュアルパワースポットです。

 

1000年以上の歴史を持つ、瑞巌寺。

 

安土桃山様式の国宝の寺院、参拝された方は、皆、豪華絢爛で、荘厳な大寺院に見惚れてしまいます。

私も、御多分に漏れず、参拝の度に、細かな細工、襖絵、天井、建物そのものも、どこをみても美しく、ずーっと見入ってしまいます。

その地場の、凛とした、清浄なエネルギーも相まって、高揚して、まるで酔うような感覚さえ覚えます。

 

そんな、瑞巌寺

正式名称は、【松島青龍山瑞巌円福禅寺】

 

現在、臨済宗妙心寺派の禅宗寺院となっております。

 

瑞巌寺は、もともと、比叡山で有名な、天台宗の寺院として平安時代の創建のようです。

時をへて、鎌倉時代

北条時頼公により、禅宗に改宗、天台宗延福寺と称していたのを、円福寺としたそうです。

 

この改宗騒動には諸説ありますので、

私なりに要約して、解説させていただきます。

 

鎌倉時代、禅に傾倒した北条頼時公(鎌倉幕府執権)が、僧として松島に入り、祭り見物をした頼時が、祭りをみ出したと言われ、天台宗の僧徒に殺されかける。

僧の仲裁も入り、命を取り留めた頼時公は逃げ帰る。

頼時公は、洞窟で修行している、禅宗の高僧と出会い、その一件について、密談を交わし、天台宗を追い出し、禅宗を広めることを約束。

頼時公、実行に移し、天台宗徒を追い出し、禅宗の僧に寺を預けた。

という説や、

天台宗僧の風紀が乱れており、退廃していった。それを嘆いた、禅宗の高僧が、頼時公と話し、兵を持って天台宗層を追い出し、禅宗となった。

という説が有名であります。

現在の、発掘調査によると、現在の瑞巌寺の場所には、禅宗の円福寺跡が見つかっており、天台宗延福寺は、別の場所に存在していた、

同時代に両方存在していた説、が、有力なようです。

 

私は、どの説が正しいのかは、敢えて、判定をしなくても良いのでは?   と、思っております。

なぜなら、

奥州は、土着の為政者が、中央から差し向けられた兵に滅ぼされる、

という歴史を繰り返しておりますので、その都度、為政者が変わったり、入植者も多くいたはずなのです。

その為政者や、入植者の信仰も、入植した地で広がりを見せたことでしょう。

なので、同時代に、違う宗派や、信仰が同時並行して行われていても不思議ではないのです。

 

実際に、

松島湾の中の小さな島で、天台僧が集まり、頼時公を呪詛をした

とか、

天台宗の経典を集めて燃やされた島の存在、

など、

言い伝えが残っておりますので、イザコザはあったのだと思いますが

その時代、その時代で、宗派や、宗旨が変わっても、

民や為政者も、神を祀り、仏を大切にして、仏に手を合わせ、先祖を供養していったはずなのです。

時間が、中和して行き、また、新しい文化と人々が入ってくる

それを繰り返し、

土地の風土も相まって、その土地の文化、風習が作られていったのだと思います。

 

瑞巌寺と五大堂・伊達政宗公の関係

瑞巌寺 五大堂は、

瑞巌寺より少し離れた小島に建てられたお堂のことなのですが、

こちらも瑞巌寺同様に、歴史が古く、大同2年、西暦807年と言いますから、平安時代、征夷大将軍、坂上田村麻呂の建立とされております。

 

私は、ブログでも書いていますが、

東北の歴史で、【大同2年、西暦807年】とされていたら、土着の神かみが、坂上田村麻呂により、置き換えられた歴史を物語っているものが多いのです。

建立年月日は、坂上田村麻呂に由来する、と言うくらいの意味で、創建が、はっきり解らないことも多いようです。

 

瑞巌寺 五大堂が、その後、天長5年、西暦828年、慈覚大師 円仁が五大明王を安置されたことにより、「五大堂」と呼ばれるようになたそうです。

 

慈覚大師 円仁さんは、遣唐使として、唐で、仏教・密教を学び、

日本全国にたくさんの寺院を建てたことでも有名ですよね。

として、松島 瑞巌寺(当時の延福寺)もそうですが、

東北では、超有名なお寺の創建をされた方で、例えば、世界遺産の平泉中尊寺や毛越寺、山形県の山寺こと、立石寺を創建され、天台宗の普及、東北の仏教文化を築かれたと言っても過言ではないですよね。

 

私観ですが、

全国に、精力的に天台宗の普及に努め、奥州と言われる東北の奥地まで、寺院を建立したのには、

唐で学んだ、最先端の仏教、ありがたい仏の教えを伝えること、

そのほかにも、全国の情報と経済を、天台宗に集まるようにする目的もあったのでは?と、勝手な推測が働いてしまいます…

 

 

その後、瑞巌寺(延福寺)や五大堂は、奥州藤原氏や、鎌倉幕府の庇護を受け大切にされてきましたが、時代を重ねるごとに、やや荒廃していったようです。

 

現在の瑞巌寺・五大堂の建物は、円仁さまの時代から、時を経た、江戸期

慶長9年、西暦1604年に桃山建築様式で建立されました。

瑞巌寺そのものの建立が同時期で、慶長14年、西暦1609年落成とされています。

 

 

上記の通り、荒廃していった瑞巌寺(円福寺)や五大堂を江戸期に

復興させたのが、【仙台藩 初代藩主 伊達政宗公】なのです。

 

復興のきっかけは、                          臨済宗妙心寺派の禅僧 虎哉宗乙 さんの助言もあったと言われております。

虎哉宗乙(コサイ ソウイツ)さんは、生涯、政宗公の先生であった方です。

 

この時に、お寺の名前を、【松島青龍山瑞巌円福禅寺】と定め、                       五大堂を、建て直したのです。

 

ちなみに、五大明王さまは、

私がとてもお世話になっている明王さまなので、五大堂にお祀りされている五大明王さまの、お名前を紹介させていただきますね。

東を護るのが、【降三世夜叉明王】(ゴウサンゼ ヤシャミョウウ)    南を護るのが、【軍荼利夜叉明王】(グンダリ ヤシャミョウオウ)    西を護るのが、【大威徳夜叉明王】(ダイイトク ヤシャミョウオウ)   北を護るのが、【金剛夜叉明王】 (コンゴウ ヤシャミョウオウ)

中央におあしますのが、【大日大聖不動明王】              (ダイニチダイショウ フドウミョウオウ)

 

五大力さま、としても有名ですよね。

 

そして、松島の瑞巌寺 五大堂は、33年に一度ご開帳されます。

次回のご開帳は、2039年を予定されています。

瑞巌寺 霊場松島はスピリチュアルパワースポット

瑞巌寺は、

仙台城下の四神獣、東の護りの要になっていると言われています。

正式名称が、【松島青龍山瑞巌円福禅寺】四神獣、東の聖獣の、青龍の名前もついていますよね。

私のイメージですが、

東の護りは、本来、大きな川を青龍のエネルギーとするので、

瑞巌寺に当てはめると、松島湾に流れ込む高木川を、瑞巌寺と同様に、そのお役目を持ったのではないでしょうか?

と思てしまうのですが…

 

でも、実は実は、違うのではないかと感じています。

それは、後ほど…

 

霊場松島を感じさせる歴史的建造物や遺構が、今も、そのの面影を残しています。

 

それは、瑞巌寺境内や、隣接するお寺、松島湾に浮かぶ小島などには、  【洞窟遺跡】と言われる、岩をくり抜いて、供養塔、五輪塔、仏像などを彫刻されており、戒名なども刻まれております。

 

禅宗への変換のキッカケとなった、北条頼時公の、洞窟で修行している禅宗の高僧と出会う一件がございましたよね、

その洞窟も、瑞巌寺境内に祀られています。

 

霊場松島へは、県内外から供養に訪れる方も多く、【奥州の高野】とも言われていたそうです。

 

鎌倉時代の西行法師、江戸時代の松尾芭蕉さんなんかも、そうかも知れませんよね。

 

私は、古典に触れるのが大好きで、面白いエピソードには、松島を訪れた、西行法師が、子供と禅問答して、負けてしまい、自らを恥ずかしいと思い、逃げ帰った、というような伝承も残っています。

そもそも、塩竈、松島地区は、多賀城に国府が置かれていたので、奈良・平安の時代から、数多くの有名な歌人が松島に訪れており、和歌もたくさん残っていますし、枕詞にも多く使われております。また、奥の細道に限らず、好色一代男、伊勢物語、源氏物語、宇治拾遺物語など文学作品にも描かれていますよ。

 

古来から、多くの人が集まる、霊場 松島、その景色の美しさも、筆舌に尽くし難いほどに素晴らしいことに加え、何かとは解らないが、人を惹きつけるエネルギーが、彼の地には存在していることを強く感じてしまいます。

 

そして、松島の地には、縄文時代から、人々が、豊かに暮らしていた遺跡もたくさん出土しております。

 

人々が営み、文化を持っていたということは、

当然、人々の【祈り】が存在しています。

自然の大きさ、厳しさに、畏敬の念を抱き、恵みや豊かさを与えてくれることに感謝して、自然と共に、生かされている人々。

縄文は、教科書などで描かれている、毛皮を着て、石斧を持って、食べ物を拾って生きていた時代ではないのです。

風をよみ、潮の流れを知り、天気を読み、航海術を持っていた時代なのです。

今より優れた精神性と、文明文化を持っていても、驕ることなく、謙虚に、 自然を神と崇め、自然に感謝して生きていたと縄文人々、

今より優れた精神性と、文明文化を持っていた時代なのです。

 

その、縄文以前から続く高度な精神性と、文化が、礎となって

霊場松島を産んだのだと思います。

 

時代が変わり、

信仰対象が、天台宗や、臨済宗、に変わり、自然崇拝から、土着の神、また、大和の神々に移り変わっていっても、

単に、上書きされるのではなく、

折り重なって、捏ねて、練られて、合わさって、オリジナルの文化を形成していったと思います。

 

過去を尊重しながら、その時代を象徴したものが、

天台宗延福寺であり、

臨済宗円福寺であり、

国宝 瑞巌寺であり、五大堂なのでしょう。

縄文より以前の時代から、松島は霊場であったのです。

神代に時代から、

罪穢れは、

大津辺に居る大船を、舳解き、艫解き、大海原へ押し放つことの如く

祓い清めるのですから。

 

瑞巌寺のスピリチュアル結界を活用した伊達政宗公

 

瑞巌寺がスピリチュアルパワースポットなのには、

まだ理由があります。

 

2011年の東日本大震災で発生した大津波は、地震と併せて、東北各地に大きな被害をもたらせました。

瑞巌寺は、すぐ目の前が海という立地なのですが、津波の被害を受けていないのです。

厳密には、参道全体の距離の半分くらいまで、波は押し寄せたのですが、参道半ばで津波は止まり、建物の方へ押し寄せることがなかったのです。

私もそうですが、

瑞巌寺を参拝された方皆さまは、海との距離や、海抜も同じくらいなのに、 津波の被害がなかったことに、とても驚かれます。

 

2011年の震災は、1000年に一度と言われた、大震災、津波でした。

1960年のチリ地震津波、その他、過去に何度も、何度も、繰り返して起きている震災や津波。

1000年以上の歴史を持つ、瑞巌寺は、そのような事態も想定されていたかのように、まさに御神域ともいうべく、奇跡の場所に、建立されているのです。

それだけでも、スピリチュアルな場所だと言えますよね。

 

 

慶長9年〜14年まで、5年の年月をかけて、全面改築して造営した、

松島青龍山瑞巌円福禅寺 通称 瑞巌寺。

 

伊達政宗公の瑞巌寺再興への思いは、如何程のものだったのか?

私たちは、今となっては推測するしかないのですが、その思いを知るためには、造営の精神が宿っる建物そのもが、語ってくれると考えております。

 

そこから考察すると、

瑞巌寺には、【上上段の間】が存在しているのです。

実は、【上上段の間】は、仙台城にもあったと言われております。

これは、「天子の間」とも言われており、天皇が御座なさる間として作られたと言われております。

 

という事は、政宗公は、瑞巌寺を、

仙台城に続いて、格式の高い場所として捉えていたという事ですよね。

 

上上の段の間の、設計思想は、高貴な方を、避難させたり、お迎えする事態にも備えたと設計だと考えられますし、

また、そのような方をお迎えするに値する場所、地形的にも、霊的な意味でも優れた場所である、と、政宗公は考えられたのではないか?

と、私は思っております。

また、戦国の雄である、政宗公は、

驕ることなく、謙虚でありながら、何かを匂わせるお方。

上上段の間は、どなたをお迎えすることを想定していたのでしょうか?

 

一般的に、瑞巌寺は、政宗公の隠れ砦説!

と面白おかしく言われておりますのが、

私は、戦国時代を生き延び、幾度の戦も優ってきた政宗公は、戦を前提として瑞巌寺を設計し作らせている事を不思議だとは思いません。

 

上段の間には逃げ道がある

天井裏には武者が待機する、隠れるようになっている、

畳の厚さを厚くして床下からの攻撃を防げる

などの設計してあることによって、

政宗公の隠れ砦とも言われる所以なのだと思いますが、

 

私は、時代背景から見ると、

江戸初期は、各藩も徳川幕府の出方を見ている状態、

政治的にも政局的にも不安手な時期、一触即発の不測の事態も起きるとも限らないので、このような防御性建築物は、むしろ当時ではスタンダードな設計であり、不思議なことではないと思いと考えております。

 

また、伊達政宗公は、天の四神獣の守りを、地上に下ろし

仙台城下の護りとし、東の護り青龍を、瑞巌寺とした と言われております。

 

古来より、スピリチュアルパワースポットで霊場である松島なので、それも納得ですよね。

でも、

私は、平安時代に、慈覚大師 円仁酸によって、すでに結界が貼られていたと思うのです。

 

宮城県の瑞巌寺 天長5年 西暦828年

岩手県の中尊寺・毛越寺 嘉祥3年 西暦850年

山形県の立石寺 貞観2年 西暦860年

で、【三角形の結界】【三角陣】の結界を張られたと思います。

私は、慈覚大師 円仁さんは、おそらく、三角形の内部にある、ある物に対する結界では?と思っています。

それらを、護る、または、隠す、または、自分達が有利になるように、   また、その物を主る、神々への祈りと、鎮めのためでは無いかと思っております。

 

その結界を、政宗公は、存じており、結界のエネルギを利用して、仙台城下の繁栄と、守護へと、向くように、スピリチュアルなエネルギーのベクトルの向きを変えたのではないでしょうか?

また、その結界を張ったそのものを、伊達家が利用できるようにしたのではないかと、私は思っております。

 

時代を経て、幾重にも重なった、瑞巌寺、霊場松島の結界の謎

私なりに、その謎に迫ってみました。

 

いかなる理由にせよ、瑞巌寺、松島、スピリチュアルパワースポットである事は間違いなさそうですよね。

 

最後に

三角形の結界のお寺は、円仁さんゆかりのお寺として、

「四寺回廊」として、専用御朱帳に御朱印をいただく四寺の参拝巡りを実行されています。

ご興味がある方は、是非ご参拝くださいませ。

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。

安陽都奈

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