瑞鳳殿は、伊達政宗公が眠る御霊廟・仙台パワースポットの理由

瑞鳳殿は、杜の都 仙台のパワースポット!城下の四神獣、南の護りと言われている、この場所は、仙台藩祖 伊達政宗公の御時代より以前に、パワースポットでありました。この場所と政宗公を結ぶ秘密とは……

瑞鳳殿は、お寺?神社?それとも、霊廟?

杜の都 仙台のパワースポット 瑞鳳殿は、仙台城下の四神獣、南の護り朱雀に当たると言われている場所です。

では、瑞鳳殿とは、どんな施設なのでしょうか?

 

私は、瑞鳳殿のお話をさせて頂くとき、よくこんな質問を受けます。

瑞鳳殿って、 お寺?  神社?

 

また、私は、年に少なくとも一回は、瑞鳳殿にお参りに行くのですが、瑞鳳殿にいらっしゃる観光客さんなどからも、

ここは、なに?お寺? などと言う会話が聞こえてくる時があります。

 

答えから言いますと、瑞鳳殿とは【仙台藩祖 伊達政宗公の御霊廟】です。(瑞鳳殿境内には、伊達家藩主、伊達家縁の方なども祀られております)

 

霊廟?  そもそも、霊廟ってなに?

 

霊廟(レイビョウ)御霊廟(ミタマヤ)は、

超ざっくり言いますと、お墓のようなもので、死者を祀る場所の事で、お墓と違うところは、石や、墓標ではなく、霊廟には、建造物が建っております。

霊廟には、いくつか種類がありまして、代表的なものは、「神式霊廟」や「仏式霊廟」があります。

 

瑞鳳殿は、「仏式霊廟」に当たるようで、「神式霊廟」には、

有名な【日光東照宮】などがあります。

 

と言うことで、

 

瑞鳳殿は、

お寺でもなく、神社でもなく【御霊廟】と言われる、死者を祀る施設です。

仙台藩祖〜3代までは、とても立派で荘厳な霊廟が、安土桃山形式で作られております。

私は、前記しましたように、最低でも年、一回はお参りにくのですが、いつ訪れても新しい発見がありますし、見飽きることのない、素晴らしい霊廟です。

その霊廟も、仙台城と同様に、仙台空襲にて、焼失してしまいました。

失われた、霊廟は国宝指定された霊廟でした。

 

私は、そのことを思うと、いつも心を痛めてしまいます。

 

仙台の街、東北、そして、日本

もう、二度と戦災に合わないよう、強く強く願うばかりです。

 

瑞鳳殿の歴史、名前の由来

 

仙台藩 初代藩主 伊達政宗公は、

 

寛永13年、西暦1636年 旧暦5月24日、江戸桜田上屋敷にて、70年の生涯を閉じました。

江戸桜田上屋敷は、現在の日比谷公園の敷地にあたります。

 

私も、上屋敷跡を見に日比谷公園を訪れたことがあります。上屋敷後には、【仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地 】の看板が立っています。

 

 

政宗公、生前の遺言で、現在の瑞鳳殿の建立場所、経ヶ峯に埋葬されました。

 

政宗公の御霊廟は、第二代藩主となられた、伊達忠宗公の命により、瑞鳳殿を建立することとなります。

 

私は、ここで、建立までの時系列を一度、整理したいと思います。

 

寛永13年、西暦1636年 旧暦5月24日 政宗公の死去

寛永13年、西暦1636年 旧暦6月4日 政宗公の遺骸を経ヶ峯に埋葬

寛永13年、西暦1636年 旧暦9月   瑞鳳殿 工事開始

寛永13年、西暦1636年 旧暦10月24日 瑞鳳殿 落成

 

となっております。

私は、江戸で亡くなった、政宗公の遺骸は、約10日くらいで、埋葬まで済んでいるのは、すごい早業ですよね、

 

今と違って、車もない時代、船は、万が一のこともありますので、必ず仙台まで、確実にお運びすることを考えると、人力で交代交代、大切に運ばれたことと思います。

そして、僅か一年で、御霊廟 瑞鳳殿が完成。

どちらも、スピードが速いことに驚きます、御意志の強さの表れですよね。

 

そして繰り返しますが、

伊達政宗公は、生前に、自身の埋葬地は、経ヶ峯、ここの場所!と決めていた場所に、御遺言通り、御霊廟が建てられました。

それが、瑞鳳殿です。

 

私は、この埋葬地が【経ヶ峯】って、とても意味深な名前だと思ってしまうのですが、そう思いますせんか?

 

そうです、そもそも、政宗公の御時代以前から、既にスピリチュアル無エネルギーを秘めた、パワースポット!なのです。

 

その謎解きは次の章で!

 

その前に、瑞鳳殿の名前の由来

私は、その漢字を見ただけでも、すごい神々しいお名前だなあ〜と感じます。

それもそのはず、伊達政宗公の、戒名から取ったお名前らしいのです。

 

 

伊達政宗公の法名が、『瑞巌寺殿貞山禅利大居士』だそうです。

ごちらの文字に、

おめでたい鳥、瑞鳥の鳳凰の文字を当てた

または、

瑞鳳殿の棟札に、『立柱上梁出郡技萃世界斉平鳳凰現瑞』

と記されているから、瑞鳳殿いなった、とも、言われています。

 

名前の由来は、あまり、はっきりしないのかも知れませんが、

私は、2代藩主忠宗公が、政宗公に対する願いを込めて、最終的に、瑞鳳殿というお名前をお決めになったのでは?と思います。

瑞鳳殿というお名前から、後世の人が、その思いを感じ取り、政宗公の偉業が伝わるよう、尊敬の念を持たれるように、という願いを込めて、瑞鳳殿という、素晴らしいお名前をおつけになられたのだと想像してしまいます。

 

瑞鳳殿 伊達政宗公の御霊屋なぜここに?

 

瑞鳳殿は、なぜ、この場所、経ヶ峯に作られたのでしょうか?

 

私は、前記した内容を、さらに、詳しく書き込みたいと思います。

記録や、文献を見ますと、とても壮大なストーリー、が描かれており、その記録や、史実に基づきますが、私観、推測が含まれます。

なぜなら、その記録自体、とてもスピリチュアルなことが書かれておりますので、推測や、私観を入れて解釈しないと、理解しにくく思えたからです。

 

 

政宗公が、仙台に帰郷された際、経ヶ峰に出向き、持っていた、杖を、地面に刺し、自分の死後、ここに埋めてくれ!と遺言を残されたのは、亡くなる1年前のこと。

 

そう書かれている記録がございます。

私は、まるで、自分の死期を悟られたかのような行動に思えます。

 

なぜ、政宗公は、その場所を選ばれたのか?

 

その謎を解くヒントは、政宗公が眠る、瑞鳳殿の脇にある石碑

【満海上人供養碑】にあります。

 

瑞鳳殿の公式HPにも簡単な記載がありますが、私なりにもっと掘り下げて解説させて頂きます。

御遺言通り、経ヶ峰に、政宗公を埋葬の際、地中より石櫃が出てきたと言われております。

石櫃内部には、錫杖、数珠などが見つか莉、近くに住む古老に尋ねたところ、「それは、満海上人の墓だ」と言われたそうです。

 

別の記録 「性山公記録」という文献には、

満海上人は、「大般若波羅密多経」を書き写し、その地に埋めた、故に、この地を【経ヶ峯】と呼ばれるようになった。

とありますので、満海上人が、何らかの関係があり、何かを埋めたのは事実ではないかと思います。

そして、一見、満海上人と、政宗公の関係は、

経ヶ峰に、満海上人の石櫃が埋葬されていることを知らずに、政宗公が、死後、この地に埋めよ!   と、言っただけの、単なる偶然性の関係かと思われますが…

 

 

実は、満海上人と政宗公は、深いご縁があるという、記録がございます。

 

政宗公誕生秘話を、私なりに要約いたしまして、ご紹介いたします。

 

政宗公の御母堂さまで有らせられる、【義姫】様が、伊達家の後継に恵まれたく「文武の才、忠孝の誉あらん御子」が欲しいという願掛けを望み、

長海上人という御出家に、湯殿山まで願掛けに行ってもらいました。

(当時、伊達家の所領地は、現在の山形県米沢市です)

長海上人は、湯殿山奥の院まで行き、子授かりの儀式を執り行い、子宝を祈願をされました。

湯殿山から戻った、長海上人は、

祈願で作った、ある品を、義姫様の寝室の屋根に建てさせたとされています。

 

そしてある夜に、

夢の中に、白髪の老人の僧が現れ、

中略

神的ご懐妊により、政宗公が誕生された。

 

また、別に記録には、

政宗公がご誕生されてから、7日間手のひらを開かなかった、7日目に開いた手のひらに、「満海」と描かれていた。

驚いた、輝宗公(政宗公の父君)は、家臣に調べさせると、城下に「満海」という修験がいたことを知る。

中略

満海が亡くなった月日時刻が、政宗公のご生誕と同時であった。

満会は、隻眼であったとされている。

 

また、別の記録にも

満海上人が、隻眼であったことが記されています。

満海上人が、月山鍛冶の鍛冶屋敷に住んでいたことから、鍛治師で隻眼になったのでは?

との記録や、

満海上人が、水垢離した池の鯉や鮒が、皆片目であった、

などと言う言い伝えまであった様です。

 

ここまでの記録で、

義姫様の、夢に出た老人は、満海上人であろうと推測されますよね。

 

私なりに、いくつかの記録をつなぎ合わせ、要約しますと、

政宗公は、

①湯殿山の神に願掛けをしたおかげで、ご生誕された。

②徳を積まれた修験者、満海上人の生まれ変わりである。

③満海上人の生まれ変わりなので、隻眼となった。

④満海上人が、生前、何らかの理由により、お経を埋めた山がある。

⑤満海上人が死後、そのお経を埋めた山に、埋葬された。

⑥時を経て、政宗公は、生前に自分の埋葬地を指定していた。

⑦政宗公の死去後、指定の場所を掘ったところ、満海上人のものと思われる埋葬品が出てきた。

という、時系列かと思います。

なので、

政宗公 = 満海上人の生まれ変わり

と言う、図式が成り立ちますよね。

 

瑞鳳殿パワースポットの理由 南の護りの不思議?

 

ここまでの記録を見て、

私は、原点に帰り結界の要、四神獣の南の護りに疑問を感じました。

 

ん???

政宗公が、仙台城を築城し、仙台の街を造られた時、城下の守りとして、六芒星の結界や、四神獣、五芒星の守り、十二支生まれ本尊、などの結界を張り巡らせました。

 

その中の一つ、天空の四神獣を地上におろして結界とした、四神獣の守りになぜ、瑞鳳殿が選ばれたのか?

 

そもそも、瑞鳳殿は、政宗公の死後に建てられた御霊廟ですよね!?

 

ということは、政宗公が仙台城下を守るために張った、四神獣の南の護りは、瑞鳳殿という御霊廟を、守りの要とした訳ではないはずですよね??

 

政宗公の御時代、結界の要にした経ヶ峯には、何があったのでしょうか?

政宗公が、結界の要とした場所ですので、古代よりパワースポットだったのだもは間違いないと思います。

 

では、その場所に、何があったのでしょうか?

満海上人の墓が重要なのでしょうか?

満海上人が埋めた大般若強でしょうか?

 

私は、不思議に思います。

記録が事実だとした前提ですが、

そもそも、満海上人は、なぜその場所に、お経を埋めたのでしょうか?

なぜ、満海上人は、その場所に自身の埋葬地としたのでしょうか?

 

ここから、私の超勝手な推測や、夢物語なのかも知れませんが、

そこに、古代から、何かがあったからこそ、満海上人は、お経を埋めて供養とし、自らその場所に埋葬されて、死して何かを成し遂げようとしたのではないでしょうか?

 

政宗公が、満海上人お生まれ変わりかどうかは、解明できませんが、

政宗公は、生前、満海上人の意思を引き継ごうと思われたのか、      または、古代から続く、その場所の意味に気づかれたのか、

 

政宗公が、死後、御自らその場所に埋葬されて、満海上人に重ねて、何かを守ろうとしたに違いないのです。

 

その場所は、何なのか?何があったのか?なぜそうなったのか?

それは、私がブログで書き続けている、古代信仰の聖なる場所ではなかったのか?

経ヶ峯は、古代から信仰の山であったのではないでしょうか?

そして、古代信仰が歴史の中で消えたことに気がつかれた満海上人が    経を埋め、供養としたのではないでしょうか?

満海上人が、自ら、その場所に埋葬されることを望み、死して、その土地の守りとしたのではないでしょうか?

そのことに気がつかれた、政宗公がその場所を、城下の結界の要の場所とし、

また、政宗公、御自ら、遺骸をこの場所に埋めよ!と言われ、満会上人と同じく、死して、その土地の守りとなろうと、決意されたのではないでしょうか?

 

だとしたら、東北に住む者たちは、

古代神、満海上人、政宗公の想い、そのことを大切にしなければいけません。

 

瑞鳳殿 仙台 パワースポットの理由、結界の不思議、謎に迫ってみました。

 

最後まで、読んでくださりありがとうございます。

安陽都奈(アヒツナ)

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