鼻節神社 謎多き歴史深き神社!宮城 七ヶ浜の鼻節神社は聖地

宮城県中部、日本三景の一つ、松島の南部に位置し、半島状に突き出た町は、7つの浜(集落)があることから、七ヶ浜町という町名となる。東北地方で、最小面積である、小さな港町には、舒明天皇2年、西暦630年に、圭田を賜る式内社、鼻節神社が御鎮座されております。アニメの舞台として、聖地ととして知られており、謎や、噂が多く存在する、スピリチュアルパワースポット神社です。その歴史深き、鼻節神社の謎を紐解いみたいと思います。

鼻節神社 謎多き歴史深き神社!宮城 七ヶ浜がアニメ聖地?

宮城県の中部に位置する、七ヶ浜町。7つの浜があり、東北で最小面積の七ヶ浜町には、約2400年の歴史を持つと伝えられている、式内社、『鼻節神社』(はなぶしじんじゃ)が、御鎮座しております。

半島状に突き出た、先端に、御鎮座する鼻節神社は、割と小規模な神社で、長い歴史や、式内社であることが、一見には、解らないかも知れませんね。

そんな、小さな町の、小さな神社は、

「かんなぎ」と言う、コミック・アニメの舞台になったことで、有名になったことがあります。

 

ご存知の方も多いかと思いますが、

大ヒット作「かんなぎ」は、作者、武梨えりさんによる、作品で、

コミック連載が2006年〜2011年、テレビアニメが、2008年の放映されました。

 

アニメは、現在、Amazonprimeで、試聴することができますよ。

 

私は、鼻節神社にも参拝させていただきますし、アニメーションで、「かんなぎ」も拝見させていただいたことがございます!

 

本当に、忠実!と言っていいくらいに、鼻節神社の、階段など細部まで驚くほど見事に描かれておりますよね。

 

神社を先に知っている私は、アニメーションを見て、内容も素晴らしいのですが、

地元の神社が、描かれている!ってだけで、なんか、とても、嬉しくなってしまった記憶がございます。

 

鼻節神社の写真と、アニメーションに出てくる神社を、比較してみるのも面白いですよ!

ご興味のある方は、ネット検索してみてくださいね。

 

話は戻り、

鼻節神社!

ご参拝された方は、わかると思うのですが、コミック・アニメのモデルになるほど、

とても神秘的なところなのです。

 

海に囲まれた、森の中に御鎮座されていますので、

参道を歩いてみても、森の中の雰囲気に、岩にぶつかる波の音、潮騒が、

時間と場所を忘れさせる・・・そんな雰囲気です。

 

そんな、神秘的で、

スピリチュアルパワースポットの、鼻節神社歴史を見ていきましょう。

 

 

 

鼻節神社 謎多き歴史深き神社のご祭神は?その1

 

宮城県の中部に位置する、七ヶ浜町に御鎮座されており、

アニメの聖地にもなり、式内社、『鼻節神社』の創建までの歴史を見ていこうと思います。

 

 

 

社伝によれば、鹽竈神社と同じという神が神代に存し、御舟にて鼻節浜に上陸、孝安天皇の時代に「ほうが崎」に鎮座があり、舒明天皇2年(630年)に初めて圭田(祭祀用として天子から賜る田)43束を奉り神事を行ったという。

Wikipedia 鼻節神社より 一部抜粋

 

私は、式内社であったことは、存じ上げていやのですが、

社伝での創建が、「神代」であったと伝えられていたのには驚きでした。

 

しかも、

「奥州一宮 鹽竈神社(しおがまじんじゃ)」の御祭神と同じ神、

と、伝えられているのですよね・・・

 

私は、ここで改めて、現在伝えられている、鼻節神社の御祭神を確認していこうと思います。

 

●鼻節神社の御祭神

猿田彦命ー岐神(ふなどのかみ)

と、されております。

 

社伝では、鹽竈神社(しおがまじんじゃ)」の御祭神と同じ神 と、伝えられておりますので、

一見、相違がある様に感じてしまいますよね。

 

別の資料で調べてみますと、

『鹽竈社縁起』によると、

「鹽竈六所明神」で、猿田彦命、事勝国勝命、塩土翁神、岐神、興玉命、太田命とされています。

 

私は、また、また、これには驚きました・・・・・・

 

猿田彦命、事勝国勝命、塩土翁神、岐神、興玉命、太田命、同体異名の6座とされております。

 

同体異名・・・・呼び方、名前は違えども、実は、同じ神様ですよ!って、ことですよね・・・

 

確かに・・・

バラバラではありますが、各々、同一神説がありますが、

私には、6神説が、多くの説、意見を纏めて、マイナスを排除したやり方のように様に感じてしまい、少々雑すぎる気もします・・・・

 

 

 

享保18年の「神名帳考証」では、木花咲耶姫・埴安神、

その他、多力雄神の神となっているものも見られるようです。

 

創建が、神代であることから、当時の資料などはあるはずもなく、

後年に出てきた資料の記載が、全て正しいわけではなく、謎であると言うことですね。

 

 

鼻節神社 謎多き・歴史深き神社のご祭神は?その2

 

鼻節神社の歴史に戻りましょう。

 

承和11年、西暦844年に、鼻節神社の神階が、従五位下となり

延暦5年、 西暦927年の「延喜式神名帳」に記載され、名神大社に列す、

その後、時を経て、

鎌倉時代にも、社殿造営、祭事がしばしば行われるくらい、崇敬を集めていたようです。

 

 

私は、神代にはじまった、鼻節神社が、

長きに渡り、鎌倉時代にも、崇敬を集めていたのは凄いことだと思います。

祭事の機能としての神社、と言うことだけではなく、何らかの機能が備わっていたのでしょう。

 

 

その証拠に、

明治期には、国府厨印(こくふくりやのいん)が、鼻節神社から見つかっており、

陸奥国府 多賀城の厨がおかれていたか可能性がある様です。

 

 

それは、

半島状に突き出て、海に囲まれている、七ヶ浜町は、当然ですが、縄文の頃から栄えており、

海の幸、山の幸、食べ物も豊富な、豊かな土地であったと考えるからです。

 

 

そして、私は、

そんな事を考えていたら、

妄想癖が出てしまい、一つの物語を妄想してしまいました・・・

 

 

海の幸、山の幸、食べ物も豊富な、豊かな土地に、幸せに暮らす縄文の人々、

 

縄文は、戦もなく、一万年以上も平和で、豊かに、続いていきます・・・

 

豊かな暮らしも、とても長い、長い、時を経ると、

その、文化風習が、段々と、時代にマッチしなくなって、錆びてきます。

いつの時代も、人間の文化には、大切なものを守りつつも、呼吸のように、新鮮なものを取り入れて、循環することが必要なはずですから。

 

そこに、現在、岐神(ふなどのかみ・くなどのかみ)と言われ祀られている、方々が、

船に乗って、この地に訪れる。

 

この地と定めて、ここに暮らし、国を作ることを願う、岐神(と言われ祀られた方々)。

 

ここで豊かに暮らしていた、地域の人々に、

ここに住む事を、国を持つ事を、承諾してくれる代わりに、最新の、知識・知恵、医療などを伝え、与える事を約束する。

 

お互いに、お互いを受け入れあい、共に豊かになる事を願い力を合わせる。

 

新しい知識を学んだ、地元の人々は、

さらに、豊かで、安全に暮らせるようになり、周辺地域では、あらゆる知識において、

群を抜いた村となり、そのえた、豊かな知恵を

周辺に伝えていき、さらなる循環を産みながら、その地区は、文化の中心地となる。

 

そして、時を経て、

知恵と、豊かな暮らしを与えてくれた、現在、岐神と言われている方を、子々孫々感謝をし

この地で、神として祀られていあったのではないでしょうか?

 

・・・と、

私の、勝手な妄想が止まりません。

 

 

さて、史実に戻ります。

 

元禄六年、西暦1693年「鹽竈社縁起」には、鹽竈神社の末社と記載が見られますので、

戦国の世の頃には、鼻節神社は、一旦、荒廃して言い伝えや、記録などを失ったのではないでしょうか?

元禄には、

仙台藩 第四代藩主綱村公が、伊達騒動をくぐり抜け、神社、仏閣の再興、整備をしましたので、

私は、その時に、荒廃して史実、記録などを失った鼻節神社を、

再び復興させ、守るために、鹽竈神社の末社に組み入れたのではないかと思います。

 

 

鼻節神社 謎多き神社の歴史と由来・ご利益

 

アニメの聖地と言われた、鼻節神社。

実は、学校でも習う、有名な随筆作品にも 「 はなふちの社 」 として

登場しております。

 

それは、皆様もよくご存知、平安中期、清少納言作「枕草子」です。

こんな、東北の地の神社が、都人に御知れ渡っていたと思われるかも知れませんが、

実は、この、鼻節神社一帯は、日本三景の一つ、「松島湾」に面しているのです。

 

私も、この時代の枕詞などに、この地が読まれていることが、とても嬉しい事なのです。

なぜなら、先ほども述べましたように、松島湾に面しており、近くには、国府 多賀城も置かれており、

当時から、この一帯は、都人の憧れの地であり、

源氏物語の主人公のモデルと言われている「 源 融(みなもとのとおる)」公のお屋敷もあり、

国府 多賀城には、大伴家持も、陸奥の守として、赴任しており、歌詠にとっても憧れの地、

色々な和歌に詠まれているのですよ。

 

 

さて、鼻節神社の社名の由来なのですが、

御祭神の、猿田彦命の鼻が高く、節があったことに由来する。

と、伝えられております。

 

また、その鼻節神社名から、御祭神が、木花咲耶姫と埴安神であるとする、

「神社名考証」(享保十八年)の記載も見られる。

 

私は、鼻節神社の名前の由来に関しては、2通りの事実がある様な気がします。

得意の、勝手な妄想ではありますが・・・

 

「猿田彦命の鼻が高く、節があったことに由来する」説は、

御祭神から想像して、理解されやすい説とは思いますが、後付け節のように感じてしまいます。

 

なぜなら、

鼻節神社御祭神が、猿田彦命、事勝国勝命、塩土翁神、岐神、興玉命、太田命、

同体異名説が、有名であり、

それぞれ、別称で、同じ神である、と言う説がありますが・・・

猿田彦命と、その他の神のご登場した年代が違うように思えますし、

塩土翁神のお鼻の言い伝えは、聞いた事ない気がしますので・・・・

この神が全ての特徴として、猿田彦命様のように、天狗さんの様なお鼻!と、伝えられていないと

鼻が高く、節がある「鼻節」とならないと、思えるからです。

 

 

私は、「 はなふちの社 」と、枕草子に登場していることから、単に

「端っこの、小高くなっているところにある神社」「端っこの、もっと端っこの神社」の意味ではないかと思っています。

「はなふちの社」の御祭神が、猿田彦命と定めてから、「鼻節」の字を当てたのではないでしょうか?

また、私のもう一つの説としましては、

岐神が、この地に降りられた時の伝承、「目鼻立ちがはっきりしている、濃い御顔立ち」をした神だったため、

その言い伝えから、

後世、おそらくその神様は、天狗様、猿田彦命ではないか?となって、

「はなふち」では無く、「鼻節」となっていった。

この2つの説の融合が、正解ではないか、と・・・私は、勝手に思っております。

なので、

各種、伝承が混ざり、「濃い顔の神が、船に乗ってやってきた」を、

6柱の同体異名説で、説明をつけたのではないでしょうか?

 

今となっては、謎ですが・・・

 

鼻節神社 謎多き・歴史深き神社の祟り?大根?とは

 

平安中期、清少納言作「枕草子」にも登場した、宮城 七ヶ浜、聖地 鼻節神社、

そんな、鼻節神社には、祟り神社としての顔もある様です。

 

 

時は現代、

神社の崖の下に白い大蛇が現れ、白い大蛇を見たと方は自殺する・・

とか、

心霊スポットとしての噂もあり、女性の霊が出るとか・・・

まあ、私なんかは、

世の中には陰陽ありますので、神社には、心霊話などは、ついてまわる、そんな感覚でおります。

 

そんな、チャラチャラした、心霊話ではなく、

実際に「祟りがあった」と言う記録があるのです・・・・・

 

 

時は、今から、約900年以上の昔のことです。

 

「朝野群載」には、神事の過穢が原因で祟りがあったため、鼻節神社に使者を遣わし、中祓を科して祓え清めるべしとの康和5年(1103年)6月10日付けの神祇官奏上が記載されているが、この奏上によって都から神官が下向して祓い清めたという

Wikipedia 鼻節神社より

 

神事で、穢れがあり、祟りって・・・

ちなみに、朝野群載(ちょうやぐんさい)とは、平安時代に、詩文・宣旨・官符・書札等各種文書を分類して、算学博士が編纂したものです。

私は、

都にも、祟りがあったことが伝わり、それを鎮めるため、わざわざ、京都から神祇官を派遣した、

と、いう記実から考えますと、鼻節神社が、京都にとっても、それほど大切な神社であったと思います。

おそらく、帝への献上品が、この地より上がっていたのでしょうね。

 

なので、祟りの噂は本当であり、祓い清めによって、きっと、祟りは鎮まっているのです。

 

 

鼻節神社境内の摂社

八幡神社、山神社、大根神社、三月田稲荷神社、天神社が祀られておりますよ。

 

その中で、興味深いの神社は、『大根神社』

 

大根は、「だいこん」ではありません、大根神社(おおね神社)が祀られているのです。

正確には、東・西大根神社(大根明神)の遙拝所の様です。

なぜ、神社そのものではなく、遥拝所なのかと申しますと・・・

 

本当の東・西大根神社は、

花淵崎の東沖7kmの海底にある南北2.5km、東西2.5kmの大根岩岩礁を境内とする神社

Wikipedia 鼻節神社より 一部抜粋

と、言う事になっている様です。

 

大根神社の御祭神は、猿田彦命・大海神の神・住吉の神とされています。

また、

宮城県神社庁の記載にも、

 

境内社の大根神社の本殿は当浜当方20粁の海中にあり、退潮の時石敷岩檣等窺うことが出来る。本社の社側に二石祠を建て遥拝所殿としている。
始、ほうが岬に在ったが、宝亀元年此の地に移した。創祀年月不詳。
石祠は明和5年改造立。同八幡社は創立年月は明でないが花渕城主の崇敬社と伝えられる。
宮城県神社庁 神社検索「鼻節神社」より一部抜粋

 

私は、

沖合の岩礁が、本当の神社であった・・・

 

と言うことは、

鼻節神社の奥宮的なものなのではないでしょうか?と思ってしまいます。

 

今から2万年前の石器時代には、

日本列島は、陸続きであったという学説が、おおよそ正しいかと思います。

 

縄文時代の始まりが、今から1万3千年前〜と言われておりますので、

縄文期は、徐々に海面上昇が起こってきている途中ですよね。

 

今より沖合に、神が降りた磐座があっても、全然、不思議ではないと思いませんか?

 

今より沖に神社があったと言うことは、

鼻節神社は、伝承の通り、

やはり・・・

「神代」の創建、「神代」の頃が起源であったと言うことを、示しているのではないでしょうか?

と、私は思ってしまいます。

 

史実でも、

鼻節神社は、もともと、現在の地、垂水山(たるみずやま)ではなく、

すぐ近くですが、同じ花渕浜の保ヶ崎(花淵灯台より海寄り)に御鎮座していた様です。

 

貞観11年、大地震があり、大津波と地盤沈下がこの地を襲い、神社も被害を受けた様です。

また、風が強く、度々社殿が破損した、との記録も残っており、

その事により、現在の地に遷座した様です。

 

 

私は、重ねて思うのは、

海岸淵に神社を建立したこと自体、

海面上昇により、沈んだ神社の遥拝所として建立したのでは?と思ってしまいます・・

 

 

最後に・・・・

またまた、私の妄想の暴論ではありますが・・・・

 

百人一首 92番二条院讃岐

「わが袖は 潮干(しほひ)に見えぬ 沖の石の
人こそ知らね 乾く間もなし」

 

現在、「沖の石」のモデルになった石は、「末の松山」と共に、七ヶ浜の隣町、多賀城市あり、

仙台藩により、奥井守が置かれるほど、大切に守られていおります。

 

沖の石の整備は、鹽竈神社や、鼻節神社、同様、仙台藩 第四代藩主 綱村公・・・

 

 

古今和歌集 小野小町

「おきのゐて 身をやくよりも

悲しきは 宮こしまべの わかれなりけり」

 

この、2つの和歌に詠まれた、潮に沈んだ、「沖の石」は・・・・

七ヶ浜の、神代の磐座

大根神社の岩礁だったのでは・・・・・・私の妄想の暴論です。

 

 

それでは最後に、鼻節神社へのアクセスを紹介して終わります。

 

鼻節神社 謎多き・歴史深き神社へのアクセス

 

所在地

宮城県宮城郡七ヶ浜町花淵浜字誰道1

交通アクセス

JR東日本  仙石線 多賀城・下馬・本塩釜駅よりタクシー
JR仙石線「多賀城駅」より、七ヶ浜町民バス〜「舘下」で下車〜徒歩
車 三陸自動車道 仙台港北I.Cより約26分

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

安陽都奈(あひつな)

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