仙台城 パワースポット最強伝説!伊達政宗公、懸造りに込めた想い

仙台藩、初代藩主伊達政宗公が、仙台青葉山に築城した仙台城(青葉城)、仙台城築城をこの地に選んだ理由とは……、仙台の地名の由来??

仙台城 パワースポット最強伝説!伊達政宗公の想い・その歴史とは

仙台藩初代藩主、伊達政宗公が、

青葉山という現在の仙台市内で最も高い山に築城なさいました。

慶長5年、西暦1600年縄張り開始され、翌年から普請された仙台城。

 

西側いに青葉山の森林、南側に辰口渓谷の断崖絶壁、東側は広瀬川の急流、北川にしか、その攻め口を見出せないというお城。

イスパニアの使節、ビスカイノさんから「日本で最も優れた城の一つ」と称されたという記録も残っております。

二万坪もある仙台城は、江戸城に及ばないものの、全国の中では、上位に入る大きさの城だそうですよ!

 

そんな戦では、難攻不落を誇った仙台城も、

戊辰戦争に敗れ仙台藩が降伏、明治4年11月、陸軍省の前身の兵部省の所有となりました。

明治6年には、なんと、政宗公が築いた本丸や石垣の一部が、陸軍によって取り壊されました。

 

さらに悲劇は続き、明治15年に、軍が、花火製造中に、火薬に引火させてしまい、二の丸も火災により消失しました。

 

私は、悲しい事実だと思ってしまいます。

悲しいですよね……

こちらの火災も、謎だらけです……

本当に、過失よる出火だったのでしょうか?

 

私は、疑問を感じてしまいます。

 

さらに、昭和20年7月10日、米軍の仙台空襲により大手門まで焼失、

戦国、江戸、永きに渡り、難攻不落の仙台城も、明治維新、大東亜戦争、社会構造の変化期に、難攻不落の仙台城最強伝説は、静かに幕を閉じたのかも知れません。

 

言い方を変えれば、仙台城焼失、それは、戦いの世から、平和への世に移り変わる、吉兆であるのならば、少しは、心の救いになるのですが

 

私は、伊達家が居なくなった仙台城が、魂が抜けたかのように、守りの結界を失ったかのように思えてなりません。

 

仙台城 パワースポット最強伝説!伊達政宗公、懸造りに込めた願い

 

仙台城の本丸には、崖にせり出した、懸作りという建物が存在していました。

 

京都の清水寺のような建物を想像していただければ、ご理解が早いかと思います。

仙台で一番高い山の断崖絶壁に建てた懸作り、当然、容易に建築できるはずもありません。

 

私には、仙台藩、初代藩主伊達政宗公は、相当に強い御意志と、大きな願いをお持ちになり、懸造り建設を指示された事だと思います。

 

では、その思い、その願いとはなんかだったのでしょうか?

 

今となっては、想像するしかないのですが、遺跡などの、歴史的な見地から手がかりにして、理解していきたいと思います。

 

城下を一望出来る、懸造りは、

城下に侵入した敵の動きも捉えることもでき、防衛のためにも役立った事でしょう。

 

また、敵方に、城近くまで攻め入られた際も、鉄砲隊や弓隊から、矢玉を射掛けることが可能ですので、城の防衛のため、敵への攻撃にも有利に働くでしょう。

私も、城の守りに大いに役立つ懸造り説は、その通りだと思います。

 

また別の一面からも考察してみましょう。

伊達者の言葉通り、人の注目を集めることに長けてる政宗公。

城下から見上げる仙台城は、それは、それは、豪華で見事な造り、みるからに守りも固い!そのことは、遠くまで、噂を呼んだことでしょう。

 

私は、そういう意味では、戦国の世を生き抜いた、伊達政宗公は、今で言う情報戦を制する意味もあったことと思います。

 

仙台城の豪華さもさることながら、守備の固さもみて取れる、まさに、難攻不落の城を人々に印象つけ、攻める事を諦めさせる心理戦、戦わずして勝つことの優位性を保ったことでしょう。

 

また、さらに別の一面の考察してみますと、

賓客をもてなす事をとても大切にした、伊達政宗公、そんな一面がございます。

自ら献立を考え、自ら調理をして、賓客をもてなした政宗公は

少しも料理心なきは、つたなき心なり

 

馳走とは、旬の品をさりげなく出し、主人自ら調理してもてなすことである

というお言葉を残していることが記録にあります。

 

千利休にも師事した、政宗公、

まさに、一期一会のお心で、賓客を、御自らもてなしました。

懸造り書院は、そこから見渡せる、自然豊かな仙台城下の絶景を、まさに賓客をもてなし、賓客の眼福とするためにお使いになったことでしょう。

もしかして、懸造りで、お料理を振る舞ったかも知れませんね。

 

これまでも、私の勝手な想像ではあるのですが、どうしても、もう一つ、懸造りに関して、政宗公の御意志、願い、思い、を感じてしまうことがあります。

それは、懸造りの位置なのです。

前ブログ、愛宕神社 仙台にも記載しましたが、

愛宕山と、仙台城が築かれた青葉山との直線は、

【冬至の日の出、夏至の日の入り】の方角と、一致している

と言うことなのです。

賓客をもてなすだけでは無く、なんらかの宗教的な御意志、願い、想いを込められたのでは無いでしょうか?

自然崇拝、太陽信仰、まさに古神道の想いがあったのではないかと感じます。

政宗公の陣旗印は、日の丸を使っております。朝鮮出兵の時も、紺地に金色の日の丸を使っています。

伊達政宗公の兜の前立ては、有名な、三日月ですよね、実は、太陽を象った、まん丸もあるのです。

兜の前立て、密教の金剛界、胎蔵界を表していると言われていますが、

陰陽思想、自然崇拝、太陽信仰、古神道とも思えます。

前ブログ、青葉神社 にも記載しましたが、

青葉神社は、伊達政宗公の御神号【武振彦命】が祀られています。

 

その青葉神社には、月と太陽、陰陽を表したと思われる印があり、その二つ合わせた様な印を、神紋として使われております。(青葉神社様では、神紋を火水土と言い、地球を表してる、と言われております)

 

その様な事実からも、政宗公の御意志、願い、想いは

何処にあったのだろう、何処に向いていたのだろう、

東北の地を、守る為に…、古代東北の歴史の真実を見ていたのでは?

 

と、私の、勝手な想いが膨らんでしまいます。

我々は何を感じ、何を想い、後世に、何を引き継げばよいのだろう…

 

仙台城パワースポット最強伝説!伊達政宗公の想いと千体仏・六芒星

仙台城が、パワースポットと言われる所以に関しまして、数々の出来事を上記しましたが、実は、それ以外にもあるのです。

 

先ずは、仙台城を築城した場所ですが、

なぜ?伊達政宗公が、その場所を選んだのか?を、知る必要がございます。

 

仙台平野は、それまで何もない土地で、伊達政宗公が、切り開き、開拓し、街を起したかのように言われる事もあるのですが、

 

私の知っている限り、縄文以前、神代の時代から、ずーっと、人が住んでおります。

 

奈良、平安時代には、遠の帝と言われる、陸奥の守が収める陸奥国府、多賀城があり、陸奥按察使や、様々な役職が設けられ、大和の行政を執り行っており多くの方が赴任しています。

陸奥の守、陸奥按察には、歴史上有名な方が赴任されて居ますよ。

 

現在、大河ドラマでも放映されたように、源義経公が、兄、頼朝公との喧嘩から、逃げ匿って貰う為に東北に逃げ落ちてきていますよね、

私は、匿ってもらう為には、弱い国には逃げないと思うのです。

鎌倉幕府が手を出しにくい強大な勢力を持っていた、陸奥国の平泉に逃げてきたはずなのです。

 

奈良、平安、鎌倉、それぞれの時代に、中央から迫る戦火をうまく躱しながら、時には、戦火を交えながらも、蝦夷(えみし)と言われた、東北の人々は、戦のない極楽浄土を築きあげて経済的にも豊かな国を築いていました。

 

時は経て、その願い叶わず、蝦夷の国、陸奥国は、鎌倉幕府に滅ぼされ、ついに中央政権の執政となります。

そのころにから、(平安時代にもありましたが)、戦の論功行賞に、東北の地を知行された武家が入植していく……ということが行われていきます。

 

ですので、仙台の地は、南北朝時代〜戦国時代から、国分氏、留守氏、が所領を始めていき時代です。

その後、関ヶ原で、軍功が認められた伊達政宗公が、国分氏、留守氏に入れ替わり、仙台を知行いたします。

 

話は戻ります。

政宗公が、築城にするにあたり、候補地は、知られているだけで二ヶ所あります。

一つが、現在の場所。二つ目は、現在の榴ヶ岡天満宮のある場所です。

実はどっちの場所も、以前からの要塞地で、築城には適している場所でした。

 

政宗公の仙台城の築城地として選んだのは、

南北朝時代に入植していた国分氏の山城、青葉山だったのです。(国分氏、留守氏は伊達氏に属していきます)

 

なぜ、政宗公は、青葉山を選んだのか?

 

私は、ここが、仙台城スピリチュアルパワースポットの所以となると思っております!

 

当時の、

 

政宗公以前の国分氏の山城は、当時は、千代城と言われていました。

千代(センダイ)?

漢字が違うだけ?って思いますが、千代という言葉の由来に秘密があります。

その地、千代の由来とは、

 

当時城を収めていた、国分氏は、

その山城に、なんと!【千体(千躰)の佛様】を祀っていたそうです。

 

千躰の仏(仏像)が祀られている城、

で、

いつしか千体城→千代城(センダイジョウ)と呼ばれる様になり、

その知行地、城下町も千代(センダイ)と呼ばれる呼ばれる様になりました。

 

 

その地、千代を、政宗公が、道教の神が住む地【仙臺】と漢字を書き換え、現在に至るのです。

そもそも、千躰仏に守られた土地が、仙台だったのです。

 

その、守本尊ともいう千躰仏を祀った場所に、政宗公の居城を立て、さらに城下の守りとしたのです。

 

千躰の仏様に守られた都市、仙台

さらに守護を強めるため、その仙台城を基礎に、十干十二支の守りや、仙台城下に、六芒星の結界を張り巡らせ仙台の守りを固めたのです。

 

実は、さらに、京の都と同じく、仙台にも、四方に四神を祀ってあります。(この件は、後ほど書き込みます)

 

仙台城が、スピリチュアルパワースポットである理由がお分かりいただけたかと思います。

 

ちなみに、

千躰仏の仏像のお話は、作り話の様に思われるかも知れませんが、

現在もその千躰の仏像は、仙台のとある寺院に大切に祀られておりますよ。

 

仙台城 パワースポット最強伝説!政宗公の狙い?城内に造り酒屋

最後に、余談になりますが、

仙台城の三の丸近くに、造り酒屋が存在しておりました。

城内に、造り酒屋を置いて、酒造りをしたのは、全国的にも珍しいのではないでしょうか?

職人さんの住まいも、城内にあったのですよ。

警備のことを考えると、普通考えられませんよね……

 

私は、その職人さんを呼んだ経緯も、興味深く思えます。

 

なぜなら、政宗公は、柳生宗矩公の紹介により、又右衛門さんという酒作り職人を仙台に招いています。

 

慶長13年、西暦1608年の招かれ、いわゆる名字帯刀を許され、明治9年、西暦1876年まで、仙台城内で消費される酒作りをされた様です。

 

城下の造り酒屋との交流もあり、お酒の品質などにも、城下酒屋と切磋琢磨されていた様です。いわゆる日本酒に限らず、葡萄酒、蜜柑酒、枇杷酒などのリキュールや、味醂も製造していた様に記録もございます。

 

仙台城築城間も無く置かれ、仙台城の廃城と共に幕を閉じた造り酒屋さん。歴史的にも、まさに、仙台城の運命を共にした、酒屋さんだった様ですね。

 

酒造り職人を紹介くださったのが、柳生宗矩公

 

言わずと知れた、徳川家三代に仕えた、兵法指南役で、有名な剣術使い。

宗矩公の父上は、柳生石舟斎、代々続く有名な剣術家、

そうです、有名な剣術の流派、柳生新陰流の宗家の親子なのです。

柳生家は、大和の地を納めていました。大和は、日本酒発祥の地、現奈良県。

 

私の勝手な妄想ではありますが、

酒造りの他に、違うお役目もあり、お城の中に住まうことを許されていたのでは………?と疑ってしまいます。

 

日本酒の本場から職人を呼んだ、と言う話の筋は通りますが……

何せ、柳生一族は、忍者とは違いますが、隠密組織を持っていたと思えるからです。

現代で言う、CIAや、MI6のような、インテリジェンス組織だったのではないでしょうか?

全国の諸大名の動きや、全国の情勢などの情報収集の一つとして、

伊達政宗公は、柳生式の諜報術、その組織、システムを仙台藩に取り入れたのではないでしょうか?

もしも、諜報機関としてのお役目を持っていたなら、お酒を仕込むお米、出荷するお酒、荷物や、人の出入りは、ある程度自由にできる。使う職人さも多くいたはず。それを、利用しないはずがありませんよね。

 

それなら、柳生の里の、酒造りの一職人が、仙台城内に屋敷を持つことも、理解できますよね…

 

仙台藩の下級武士、いわゆる足軽勢には、【柳生心眼流】という、柳生の剣の流れを汲んだ、甲冑兵法という戦闘術が、現代にも伝わっておりますので、柳生家との繋がりは、ないという方が難しいかと……

 

あくまでも、私個人の、妄想のお話でした。

 

御神事を大切にされた、政宗公、

城内で醸されたお酒は、いの一番に、神仏に捧げられた事は堅いと存じます。

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。

安陽都奈(アヒツナ)

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